太陽の光は恐ろしい 眩し過ぎて何も見えないんだ   五十嵐あゆみ


 風のない穏やかな夜。
 不夜城─東京。
 空には引き絞られた弓のような細い月が昇り、見える星は数えるほどだ。
 真夜中を彩る都市の灯りはキラキラと眩しく、夜空に浮かぶ星々の光をいとも簡単に消し去ってしまう。
 
 ふわり─

 音もなく空から舞い降りた影は、美しい少女の形をしていた。
 しかし、人の姿をしていても人にはあらず。彼女─フウは吸血鬼。人の生き血を糧にして闇の中に生きる一族だ。
 ワンピースの裾を気にしながら、頬に掛かる髪をそっと指で掻きあげる。フウは小さく息をついた。
 降り立ったのは、とあるマンションの一室。何もない殺風景なベランダをぐるりと見渡してから、フウの視線はある一点で留まった。
 きっちりカーテンの閉じられたガラス窓。でも─鍵はきっと掛かっていない。
 “血の契約”を交わし、彼の元をフウが訪れるようになってから、その窓には一度も鍵を掛けられることはなくなった。
 彼女の来訪を、彼は受け入れてくれる。それはフウにとって驚きであり、ささやかな喜びだった。
 窓へと手を伸ばしかけて、途中でフウは止めた。
『危険なのよ』
 ウミの言葉が脳裏に甦った。
「分かっていますわ、ウミさん」
 自分に言い聞かせるように、フウは小声で言った。
─本当に
 ただ一人の人間の元へ繰り返し通う、それがどれだけ危険を伴うものか十分理解している。
 細心の注意を払い、フウたち一族を付け狙う追っ手の眼を掻い潜り、闇に紛れ今まで生き延びてきたのだ。
『貴方のことだから大丈夫だと思うけど…』
 先日東京タワーでの別れ際、フウを見つめるウミの澄んだ蒼い眸に心配そうな光が揺れていた。
『くれぐれも油断しちゃだめよ、フウ。気を付けて』
 いつから?
 血を分けてもらう─その契約の為だけでなく、ただ会いたくて彼の元を訪れるようになったのは。
 もしかすれば一族を、ウミやヒカルたちまでも危険に晒す、そんな最悪の事態を招きいれてしまうかもしれないのに。頭で理解してはいても、心は─彼を求める気持ちは止めることは出来ない。
 だから今宵も─またここへ来てしまった。
─今まで、こんなことはなかったのに
 彼を、フェリオを契約者としてでなく、特別な人とフウが認識してしまったから。

 突然、眼の前でカーテンが開かれ、フウはビクリッと身体を震わせた。
「フウッ!」
 綺麗な金色をした眸を驚きに見開いたのは一瞬のことで、フェリオはすぐに窓を開けた。
 柔らかく会釈を返して、フウはフェリオの部屋に足を踏み入れた。
 見慣れた彼の部屋。灯りは落とされ、勉強机のライトだけがぼんやりと光る。
「…すみません、お邪魔してしまいましたか?」
「いや─」
 フェリオは笑って首を振った。
「定期試験はもうすんだから。ちょっと調べものをしていたんだ。別に急ぎってわけじゃないから、気にしなくていいよ」
「試験の方はいかがでしたか?」
「ん−、そうだな」
 頭に手を遣り、
「まあ、大丈夫かな。八割方は書けたと思うし─結構真面目に授業も出席してるし」
「そのようですわね」
 机に歩み寄り、無造作に積み上げられた本の一冊を、フウは手に取った。ページを繰る。
 所々に付箋が貼られ、空所には細かな書き込みや色ペンでチェックが入れられている。
「見かけによらず勉強家なんですね」
「それって、何気に酷くないか?」
 フウはくすくすと笑う。渋い顔をしてから、フェリオも相好を崩した。

「でも─」
 笑いを納め、フェリオが続けた。
「なんだか今夜は、フウが来るんじゃないかって予感がしたんだ。だから寝ないで待ってた」
「フェリオ…?」
 金色の眸が細まり、柔らかくフウを見つめて微笑んだ。
 自分へと向けられた、彼の綺麗な笑顔にフウは声を失った。大きく眼を見開き、暫し呆然としてから、慌てて下を向いた。
 顔が熱い─
 フェリオがフウに近づく。
「私が来なかったら、どうなさるおつもりだったのですか?」
「どうするも何も、その時は大人しく寝るだけだろう。でも、フウは来てくれたから─」
 フェリオの手が伸び、フウは引き寄せられる。
「─あっ」
 手にしていた本が滑り落ち、絨毯の上でくぐもった音を立てたが、フェリオは気にしない。フウの身体は、彼の腕の中に囲われた。彼の指が頬を撫でる、熱い吐息がかかり、フウは眼を閉じた。

─フェリオと交わす口付けは、これで何度目になるだろう?
 幾度となく離れては再び重ね合う。次第に長く深さを増していく。懸命に彼に応えながら、フウは頭の隅でぼんやりと思った。
 初めての時も、この部屋だった。いつものように血を分けてもらうおうと、彼のマンションを訪れ─突然、彼に肩を掴まれた。否応もなく強引に唇を重ねられ、夢中でフェリオを突き飛ばして、フウは逃げた。
─怖かった
 彼が自分に抱く想いに、初めて気付かされた─と同時に。
 フェリオに対する自分の感情に。
 彼はただの獲物。命を繋ぐ為の契約者。
 そう言い聞かせ、心の奥底に沈めて気付かないふりをしていたのに。
『姿形は似ていても、人間と私たちは全く別の生き物なのよ。好きになるなんてはずないの』
 そう、好きになってもしょうがない─
 たとえ同じ世界に生きていても、共に過ごすことは叶わない。
 僅かに許されるのは、瞬きほどの短い逢瀬。
─でも…それでも
 二人の吐息が、名残り惜しげにそっと離れた。
─私はこの人が、フェリオが好き

 だから、会いたい。
 限られた時間だからこそ、少しでも長く彼の傍にいたい。
 それは自分の我が侭なのだろうか?

「フウ?」
 フェリオの声に我に返った。
「どうしたんだ?ぼんやりして」
 彼が心配気にフウの顔を覗きこんでいる。
 金色の眸にフウが映る。真っ直ぐな彼の眼差しが少し眩しい。
 フウとは異なる、光の世界に生きる者。
 ふるっと小さく首を振ると、フェリオの胸に顔を寄せた。
 力強く打つ彼の生命の響き。その身体に流れる赤い血潮はフウの生命をも支えてくれる。
 彼の匂い。温かな体温に包まれ、穏やかな安らぎがフウを満たした。
─けれど
 黒い染みのように、じわじわと胸に広がっていく─言い知れぬ不安。
 この幸せはもうじき終わる─フウの本能が知らせる、不吉な気配。
 忍び寄るその翳に、フウは怯えた。
─大丈夫、まだ大丈夫ですわ
 何度も自分に言い聞かせた。
 今があんまり幸せだから。ありもしないものに怯えている、ただそれだけの事だ。
 刹那。
 忘れてしまいたい。忘れさせてほしいと、フウは痛切に願った。
 彼が人間であることも、自分がその血を糧とする吸血鬼であることも。
 全て─
 今、この一瞬だけでも。

 顔に手を遣ると、眼鏡を外した。
 訝しげに向けられるフェリオの視線を感じたけれど、顔は伏せたままに。
「─抱いてください…」
 フウの手から眼鏡が落ちる。

 ようやく喉から搾り出した、か細い声は彼に届いただろうか。
 慎みのないことをと、呆れられたのでは─
 恥ずかしさといたたまれなさで顔を上げることが出来ず、フェリオが一体どんな表情をしているのか、フウには知る術もない。
 小さく竦めたフウの身体は、ふいに強い力で抱き寄せられた。
 「フェリ…」
 背中に回された彼の腕を振り解くこともままならず、激しく続く抱擁に息が苦しい。
「後で嫌だって言っても、俺はやめないぞ」
 フウの耳元で囁かれたフェリオの声は、いつもよりも低く聞こえた。
「きゃっ─」
 次の瞬間には軽々と抱き上げられ、彼のベットに運ばれる。
 背中に柔らかい弾力を感じたと思うと、再びフウは唇を塞がれた。
 今までにない優しい口付けは─フウを慈しむ彼の気持ちが伝わってくる。手と手が触れ合い、自然に互いの指を絡ませた。
「フウ」
 名前を呼ばれて、眼を開けた。息のかかるほどすぐ傍に、彼の顔がある。
 明るい色をした綺麗な彼の眸。陽の光に似た強い輝きに、フウは魅入られる。
 太陽の光は恐ろしい─眩し過ぎて何も見えなくなってしまうから。
 でも、眼の前に見えるその光は違う。柔らかく優しく包み込むようにフウに注がれ、心を暖め、照らしだしてくれる。
『いいのか─本当に?』
 声には出さず、彼の眸が問いかけている。
 微笑んで頷き返した。ひどく緊張して、顔が強張っているのが自分でも分かる。上手く笑顔をつくれたのかどうか、自信がない。

 そっとフウの額にフェリオが触れた─頬に。唇に。頸に、鎖骨をつたいゆっくりと下りていく。
 白い素肌が夜気に晒される。
 彼の体温を、身体の重みをフウは全身で感じた。糸がほどけるように、力が抜けていく。
 夜はまだこれから─
─今、この瞬間だけは人間でもなく、吸血鬼でもなく
 切ない願いを胸に秘め、フウはその身をフェリオへと預けた。


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