断片1 ぶち


 ふんわりとした金の髪。翠と碧が入り交じった瞳は、今は眼鏡に邪魔されて覗けない。日焼けなど縁遠い白い肌。紅色の頬と唇。
 白いワンピースが、落下する風にだけ、はたはたと揺れる。彼女は音も立てずに、バルコニーに降り立った。
 背中には丸い月。金色の光は彼女の髪をもっと淡い金に変えていく。何も知らない人間が目にすれば、まさしく彼女は天使だろう。

「御機嫌よう、フェリオ。」

 窓の向こう。彼女は軽くすんなりと伸びた指でスカートの裾を摘むと、お辞儀をした。一連の動作は流れるように優雅で、いつ見ても夢の中ではないのかと疑ってしまう。
 机の上に置かれた夜灯が彼女の顔を照らして、やっと微笑む表情が見えた。
 それに安心したように、フェリオは細めていた琥珀の瞳を戻し、椅子を引きテキストやらメモやらが散乱した机から窓に向かう。
 サッシの鍵を引き上げて、彼女を見遣った。
「…そんな時期、か? フウ。」
 そうして躊躇いなく窓を開け、フェリオは彼女を部屋へ迎え入れた。
 何処か夢の様な少女に彼の−ごく普通の大学生の部屋−は、あまりにもそぐわない。無造作に投げ捨てられた服や雑誌が陳腐で、まるで学芸会のセットのようにすら見えた。
「はい。」
 フウと呼ばれたの少女は、踊るように青年の側まで近付いた。足を運ぶたび、鈴がなっているような耳鳴りがして、フェリオは軽い目眩を感じる。
「でも前回からさほど日数がたっていないのも事実ですわ。申し訳ありません。」
「平気…だと思う。レバーも喰ってるし。」
「ニンニクもお食べになって平気ですわよ?」
 フウは口元を手で隠してクスクスと笑った。その意味を知って、フェリオも笑う。
「太陽の光も平気なんだよな。」
「ええ。」
 そう告げて、フウは眼鏡の中、翡翠の瞳を悪戯に細めてみせた。
「平気ですわ。貴方が、私に血をくださるのなら…。」
「……ああ。」
 その言葉が合図のように、フェリオはシャツの襟元をくつろげる。鎖骨がみえるほど大きく開くと、琥珀の瞳が少女を待った。

 少女−フウ−はいまでも天使に見える。
 唇の端に見え隠れする犬歯すら、笑うと頬に浮かぶえくぼと同じで、可愛らしい八重歯にしか見えはしない。

「痛みはないと思いますけれど…。」
 フウの吐息が首筋に係り、フェリオは自然と瞼を落とす。
 針が刺すほどの痛みもなく、献血をしているような性急さも無い。けれど急激な眠睡魔がフェリオを襲う。
 彼女に血を渡す時はいつでもこうだ。精神的な負担を減らす為だと言っていたが、実際のところはよくはわからない。けれど大概、このまま朝まで眠り続けるのが普通だった事を思い出す。
『やばいな…レポート、明日までに仕上げないといけなかったんだ…。』
 ふいに浮かんだ現実が引っ掛かりはしたが、フェリオは眠気に逆らう事は出来なかった。


 フウはくたりと眠り込んだフェリオを見下ろす。
 首筋に残る牙の痕は、流れる血をハンカチで拭ってやると既に塞がっていた。意識せず、ほっと安堵の溜息が漏れる。
 喉を潤す温かな血液は、優しい彼の体温と同じ。確かな力を自分に与えてくれる。傷つける事など、望みではない。

 窓に向かう為に踵を返し、ふと、机のレポートに目を惹かれた。
 読んでみると誤字と脱字。理論展開は間違いではないけれど少々強引な事が気になる。実際フェリオよりも長きに渡り英知を貯えた少女は、少し考えてからペンを取った。ノートの走り書きに、訂正と解説を加えていく。

「少しはお礼…になりますでしょうか?」
 
 窓まで引いてから、フウは小首を傾げた。
よけいな事をと言われるだろうかとも思うと、少し不安になる。人間をただの獲物として見た事は無いしこれから先も見る事はないと思う…が、それ以上に彼は特別。
 フェリオの血が、自分にとって特別であるのと同じように。

 嫌われるのは本位ではない。

 そんな願いが胸に湧き、フウは自分に驚く。振り切るように、夜空へと飛んだ。
 頬を染め、恥じらう表情を見せながら闇へと紛れていく少女の後ろ姿は、やはり天使のようにしか見えなかった。


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