zero is ends and start


  母の紡ぐ言葉は、空で言えた。
心地よい旋律とともに覚えたそれとともに身体も動く。
踊る様に唱える自分の小さな掌に、水が−それもフワフワと浮いている−浮かび上がって行くさまは何度見ても楽しい。
 たとえ、それが譜術の勉強と言う名の行為だとしても。
『大分上手なったわね。流石私の子!』
 母はそう言うと、腕の中にキュッとピオニーを抱き締めた。そうすると彼女が使っていた香水が鼻を擽り、嬉しいような恥ずかしい様な、何とも言えない気持ちで胸がいっぱいになっていく。



 ふわりと別の香水が鼻を擽る。
 声を掛けずに、暫くの間観察しようだなどと、やっぱりあの男は底意地が悪いとピオニーは肩を竦めた。
 瞼の裏側に、端正な顔を眼鏡で隠し、いつも不気味な笑みを宇浮かべている人物が浮かぶ。その緋色の瞳は、きっと細められ、薄く形の良い唇は微かに上がっているはずだ。後ろ手に組んだ立ち姿は、その長身も相まって人を威圧する。
 ならば…と、思い立ちその譜術を掌ではなく別の場所に固定し直す。
紡ぎ終わった詠唱と共にバケツ一杯程度の水が降り注ぐ筈だった。

『フレイムバースト』

 タイミングを合わせて唱えられたそれのお陰で、全てはまた気体に戻る。

「お前な〜。」
 両手を腰にあてて振り向いたピオニーに、彼は想像したとおりの姿で立っていた。
「式典の前に、軍服を濡らされても困りますので。」
 笑みを崩さぬ軍人−ジェイド・カーティス−の姿に、ピオニーもその口角を上げた。
「俺の式服も焦がしてもらっちゃあ、困るんだかな。」
 青と白を基調とした、式服。
 覆うように、金糸で刺繍を施し宝石が鏤められた帯が幾重にも巻かれている。
 金の刺繍に勝るとも劣らない彼自身の金糸は、後ろに高く結い上げられその部分を起点に蒼い髪留めが飾られていた。
 大きく開いた肩口からは、彼の褐色の肌が惜しげもなく晒されている。
 若き皇帝の姿は美しいという形容詞で締めくくっても問題ないほどの出来映えだった。しかし、ジェイドの口は素直には開かない。
「重そうですね〜。」
「おお、どんな鍛錬よりもきついぞこれは、貧血で倒れたら支えてくれ。」
「帝位継承の儀式に、貧血で卒倒する皇帝のいる国に明日はありませんね。」
 ピオニーは笑みを浮かべたまま彼を見返す。どんな宝石よりも輝きを感じる双眸に、ジェイドは目を細めた。
「かまわんんだろう?明日は創るんだ、俺達の手でな。」
 ピオニーがそう告げると、ジェイドは胸に手を当てて一礼をする。
「お気楽に言って下さいますが、そろそろお時間です。」



 母を失ったこの場所に、こうして自分は帰ってきたのだ。 この国の皇帝となるために…。


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