誤解ならもう一生解けぬ


 背後から聞こえた絹ずれの音に、妖艶な笑みが浮かぶ。

「すみません、起こしてしましましたか?」

 ジェイドは上着を羽織ろうとしていた手を止めて、腰掛けていたベッドを振り返った。褐色の肌を惜しげもなく晒した皇帝は、訝しげに細めた碧眼でジェイドを睨み付けていた。
 粗末な(と言っても軍の要人に与えられた部屋なのだから、旅先で泊まる安宿などとは比べものにはならないが)ベッドに、彼の姿は余りにも不似合いだった。
 きめ細やかな肌には細かな糸織り込まれた布が相応しいだろうし、彼を照らす光は片方が黒く掠れた譜灯であって良いはずがない。肩から滑り落ちる金糸だけを纏った上半身に置かれる背景が、薄汚れた壁では絵にならない。豪華で、磨き上げられた調度品が、彼を飾りつけるのには相応しいだろう。
 観察するようにじっくりと眺めてから口元に指をあてて嗤うと、形よく整った金の眉の間に刻まれた皺はもっと深くなった。
 
「こんなとこに置いてきぼりの上にこんな格好。衛兵にでも見られたらどう言い訳すりゃあいいんだよ、俺は?」

 ピオニーは片方の指でシーツを摘んでから、再び落とす。ふわりと被さった白いシーツは、今度は上手く下半身を隠してくれたようだ。腹部から腰にかかるラインが丁度シーツに隠れてい否応なく細く締まった腰から下を想像させる。
自分の様に身体全体が細いのではなく、彼には男としての引き締まった筋肉としなやかな肢体を併せ持つ。寝乱れた金髪が絡みつき顔にかかる様子に、挑むような色香を感じた。

「それは困りますね。貴方のこんな姿を他の方にお見せしたくない。」

 ジェイドはくつりと嗤い、まだ手袋をはめていない指先をかの人に伸ばした。
しかし、ピオニーは鼻先でそれを避けて、ジェイドの手首を掴んで引き寄せる。
 場に留まるだけの力は、勿論軍人であるジェイドにはあったのだが、大人しくそれに従った。
 ベッドの上に四つん這いになった格好で、ジェイドはベッドに座っているピオニーと視線を重ねる。胡散臭そうに、ピオニーが目を細めた。
 キスをせがむ表情に酷似してるとジェイドは思う。細い唇をつんと尖らした貌が36にもなってと、少し可笑しい。
「何嗤ってやがる、そういう問題じゃねぇだろうが。」
「いえ、重要事項です。」
 くつりと嗤い、背中に指を滑らせる。びくと震える身体が愛おしいとジェイドは思う。ピオニーはむうと頬を膨らませて、気怠そうに再び頭を枕へ落とした。
「俺は動けねぇぞ、誰かさんのお陰で。」
「はい、はい。」
 宥めるように返事をして、シーツを肩までひっぱり上げてやる。片方の手で裾を掴むと、顔を半分まで覆った。
「人と会う約束があるので、出掛けてきます。」
「俺がいるのにか。」
「仕事はプライベートを選んでくれないものですから、此処は上司である貴方にも我慢していただかないと困ります。」
 拗ねてしまった主を宥めようと、シーツからはみ出ている頭部に口付けを落とそうとして、ピオニーの腕に阻まれた。
 掌で貌を押されて、押し返される。
「随分とつれない素振りですねぇ。」
 本格的にご機嫌を損ねてしまったかと、ジェイドが苦く笑う。ご機嫌をとる方法もあったが、時間が押している。さて、と思案顔へ変わったジェイドの様子を、シーツの裾から伺っていたピオニーは、指先を自分の唇に当て、その指でジェイドの唇に軽く触れた。
「早く戻って来い。続きはそれからだ。」
 そうして、すぐまたシーツの中に潜り込み、戸口に背を向ける。
「御意。」
 敬礼を伴った仕草で、ジェイドは主に微笑んだ。



 場末の酒場。灯りさえも遠慮するような薄汚い場所は、大通りを外れた小道を幾つも曲がった先にあった。佇まいですら知れる背徳感。治安の悪さは折り紙付きだ。
 店に足を踏み込めば、ソファーに座る男達に気怠い視線を向けていた肌も露わな女達が視線を寄越した。しかし、興味なげに、再び男達腕にぶら下がる。
 煙草ではない紫色の煙が燻り、視界を遮る中、女物の纏を頭から被ったジェイドは躊躇うことなく店内に踏み入った。狭い店内を彼のヒールの音が響く。
 興味を失った女達と違い、仄かに照らされるジェイドの顔を見つめる男達の目には情欲が見え隠れするが、女達の忠告で口説き文句と共に酒を煽った。

「アレはオーナーの女だから。」

 口々に、血のような口紅を纏った唇がそう告げると、動向のみを面白がって追うだけだ。ジェイドは気に止める事無くバーテンと言葉を交わし、カウンターをくぐって奥の部屋へと向かった。
「まったく見境がない。」
 ぱさりと纏をとしたジェイドは、邪な笑みを浮かべて廊下を歩いた。忠告されたにも係わらず臀部をなで回そうとした腕は、内側から神経を灼いてやった。今頃、動かない腕に大騒ぎをしているところだろう。
「さて…と。」
 廊下に燈る譜灯は橙。居並ぶ柱の影を明るく照らす事などしない。そんな事をすれば、明るい光に浮かび上がる闇がいっそう濃い事を知っているからだ。
 世の理とはそういうもので、ピオニーがこの国を継いだ時から全てが光に包まれた事などない。曖昧な境界線に、くっきりと切れ目を残さない器量と才覚をジェイドは恐ろしいと思う。
 そうして、同時に誇りにすら感じるのだ。

 唯一を誓った相手は、執務室の仮眠室で待っている。

「急ぎましょうか…。」
 ジェイドは両腕を胸元で絡めてから、片方の指先で眼鏡を押し上げ、クスリと嗤った。
 長い廊下は緩やかに角度を落として地下へと続いていた。
 グランコクマは水の都だが、同時に地下水路の都でもある。都市中に張り巡らされた水路は、子供達の遊び場という手軽さから主君を城から逃走させるルートになったり、悪党達の巣になったりと用途は幅広い。
 こうしてジェイドがいる場所の恐らく壁(酷く厚い壁だが)一枚を挟んだ先は水のうねりが渦巻いているに違いなかった。音素の比率の差は、敏感であるジェイドには手に取るように知れた。
「貴方達の飼い主に会いに来ました。通して頂きましょうか?」
 突き当たりの扉を囲むようにたむろしている男達が、胡散臭そうな顔でジェイドを見上げる。その訝しさ満載の表情に胡散臭いのは貴方達でしょうと、腹の中で呟きながら、ジェイドは笑みを崩さない。
 線の細いそれこそ優男にしか見えないジェイドに、腕っぷしだけには自信のある男達は命令など聞く気にはなれないようだった。
 げらげらと下品な笑い声を上げ、下世話な言葉を吐きかけてくる。そんな事で、どうこうなるような安っぽい自尊心は持ち合わせが無かったのだが、ジェイドはただ急いでいた。
 
「仕方ありませんねぇ。」

 にこと笑顔を向けながら、譜陣を展開させようとした指先を男のひとりが長剣で留める。顎でしゃくるように、入室を即した。
「ありがとう。」
 軽く頭を下げジェイドが足を踏む出すと、周囲を囲む罵詈雑言は音量を上げる。それでも手を出して来ないのは、男達を諫めた人間が有無を言わさぬ実力を持っているということだろう。その人間は、ジェイドを通すと廊下に腰を下ろして、これ以上干渉してくる様子もない。武芸に秀でた人間には馬鹿は少ない。ジェイドはその事も熟知していた。
「ここの周囲は、海ですね。この壁の先に深淵が横たわっていると想像したら恐ろしくありませんか?」
 にこりと、まるで世間話のように告げたジェイドの言葉に、その男はぴくりと眉を潜めた。それ以上告げる事なくジェイドは扉を潜る。ざわめきの中で、遠ざかって行く足音を気に止めるものはいなかった。


「急にどうした?」
 小悪党と顔に記されたような男は、ジェイドの姿を見るなり腰を深く沈めて仰け反るように座っていた安楽椅子から身体を起こした。余りの慌てぶりに、椅子からズリ堕ちそうになったくらいだ。
 綺麗に施された調度がその男にあまりにも似合わず、ジェイドは苦笑を禁じ得ない。青い手袋の中に嘲笑まで押し込めて、唇を覆った。
「情報を頂く予定では?」
 素知らぬ風に言葉を紡いで、ジェイドは男を見遣る。眼鏡のブリッジを指で押し上げながら微笑んだ。
 それから逃れるように、ちらちらと部屋全体を見回す男の視線は、統一性の無い高価そうな調度品に注がれている。ジェイドに知られたくないものらしいと気付けば、後は簡単だ。
「どうしました? 暫く見ない間に随分と金回りがよくなったみたいですねぇ。」
 辛辣な笑顔に睨まれて、男は一瞬息を飲む。整いすぎた美貌は、華のように美しいと讃えるよりも、捕食者の持つ鮮烈さを思い起こさせる。
「そ、そんな事は。あ、情報、情報だったな。今部下を呼びに行かせるから…。」
「お待ちなさい。」
 男の言葉にジェイドは唇に置いた己の指を舌で玩ぶ。に誘われるように、男は口を開いた。
「何を…?」
 及び腰の態度すら、知られては困る悪行の片鱗を余すことなくジェイドの前に晒しているものの、小悪党たる彼にはジェイドには隠し仰せると思っているのだろう。
下卑た愛想笑いを浮かべたまま、ジェイドの隙を窺っている。小賢しいと思う気持ちは、時間の無駄をジェイドに告げた。
 ジェイドの栗色の髪が、ゆうるりと風に舞う。肌が粟立つような気配が部屋を包んでいくのをその男は息を飲んで見つめていた。
「茶番は結構です。」
 笑みを浮かべていたジェイドが、すっと表情を冷えたものにするのを男が驚愕の表情で見つめていた。
「おま…」
 クスリと嗤うジェイドの足元には、沸き上がるような譜陣が部屋を飲み込もうとしていた。
「情報屋は情報屋としての分を守りなさい。そうでないのなら、消えて下さい。」
 にこと微笑む顔は、もはや咲き誇る大輪のようで、ジェイドを中心にゆっくりと壁と床が形を成さなくなっていくのを、その男は黙って見送った。



「そこそこ使える情報屋をなくしました。」
 ふうん。
 ニヤリと口元を歪めてピオニーは嗤った。

うそつくなよ?
 
 艶やかな唇が、声を発する事なく形づくられる。

「てめぇ、俺を放っておいて浮気してきやがったな。」
 はんと鼻で威嚇されれば、ジェイドはおやと。
纏っていた衣に、香が炊き込んであったのを思い出し、ああそうかと納得する。正面切って文句を言ってくるところなど、初々しいと思えなくもないが、単に自分の対応を楽しんでいるのだろう。
「移り香でしょうか。 なるほど、皇帝陛下はブウサギ並みに敏感って事ですかね。」
 上着を椅子に掛けてから、ジェイドはベッドの横に腰掛ける。僅かにしなっても、柔らかなクッションはそのままジェイドを受け入れた。
「どんな女に搾り取られて来たのか知らんが、手加減してやらないからな。」
「それは私の台詞ですよ、ピオニー。そのお考えが誤認だということを、証明してみせますから。」
「は、どうだかな。」
 莫迦にしたような吐息と共に、ピオニーはジェイドの身体を引き寄せた。
「どんな悪さをしてきやがった?」
「それは内緒です。」
 にっこりと笑うジェイドの頬に、ピオニーの頬が押し当てられる。
「…殺すなよ、確かに生き汚い人間だろうけど、簡単に命を奪うな。」
「ピオニー…。」
 そうして、くと喉で笑う。
「いや、誤解したようだ。お前は浮気をしてきただけ、だったな。」
 白いシーツに金の糸を散らして、鮮やかに微笑む皇帝を見下ろして、ジェイドも笑った。


〜fin



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