アッシュと陛下のお話 蒼いグランコクマに、紅は特に映えた。 途中でどうしても街で手に入れたい物があり、この地に足を向けたアッシュだったが今は後悔と苛立ちで普段締めていた思考が全て塗り替えられていた。 そうだ。こんな事なら、自らが此処へ踏み込まずとも良かったのではないだろうか。あの盗賊風情でも、ギンジにでも行かせれば良かったのだ。 己の考えが、あまりに正論で思わず唇を噛み締めたアッシュの顔を、纏で深く顔を隠した男が覗き込んだ。 そのまま指が、眉間と額に大きく刻まれた三本の皺をなぞる。 ギョッと目を見開き(そうすると彼のレプリカであるルークに良く似た表情になる)、手を剣にかけて後ずさった。 この屑…と言いかけて、相手が一国の王であることを思い出し、再び唇を噛み締めた。しかし、原因物質である彼−ピオニー−は腰に手を当てて、指で皺をなぞった姿勢のまま、猫のように距離を置いたアッシュを眺めていた。 「なんだ、反応いいな。」 酷く楽しげに笑うと姿勢を正す。金の髪を束ねた髪飾りが、振り子時計のように大きく揺れた。 「…。」 「どうして、此処にいるのかというと息抜きだ。何故、ひとりなのかと言えば、警護兵を連れてこなかったからで、どうして、兵を連れてこなかったかと言われれば、ジェイドに外出を止められたからだ。」 「…。」 「…という訳で、そこの行列が出来ているパン屋で評判の品を食べようじゃないか、アッシュ。小遣いやるから、ちょっと並んで来いよ。」 アッシュの眉間に刻まれた皺が、三本の波からこめかみを中心に血管が浮き出る様子に変わるのをにこにこと眺め、ピオニーはそう言い切った。 「…恐れながら、宮殿にお戻りになって、配下の者に行かせたらどうですか。あの眼鏡…とか。」 アッシュがなんとか冷静に言葉を紡ぎ出すと、反論は直ぐに返ってくる。 「馬鹿、んな事出来るはずないだろう。出来るというならお前やってみろ。ほら、いいからさっさと並べ、幾らなんでも俺が並んだら顔が売れすぎてるからバレる。」 強引と言う名の後押しで、アッシュは背中を押し出された。二、三歩あるいて、逃げ出そうと振り返れば、期待に胸を膨らませた顔のピオニーが、何が楽しいのかにこにこ笑いながら見つめている。 走って逃げる→追いかけられる→騒ぎが起きる→衛兵に見つかる→とばっちりを喰う アッシュはそこまでに至り、盛大な溜息と共に行列の最後尾に並んだ。 鼻を擽る香ばしさと、甘い匂いがするパンを両手に、先程の場所に戻ってみればピオニーの姿は無かった。一瞬、馬鹿にされたのかと思い、手にしたパンを地面に叩き付ける寸で、アッシュは瓶に詰められた液体を両手に歩いてくる男を見つけた。 「すまん、すまん。こいつを買おうと思ったら結局並んじまったよ。」 広場に据えられたテーブルについた椅子を足で引き寄せて座ると、片方の瓶をアッシュに向かって押し出した。アッシュは、手にしたパンを一度テーブルに置き、椅子に座る。パンを差しだそうと顔を上げると、何が楽しいのか笑顔の皇帝と目が合った。 「何か?」 「いや、誰かと食事を共にするのはやっぱり楽しいと思ってな。」 にこりと笑い、パンに手を出す。喉の奥まで見える程に口を開けて噛みついた。手についた砂糖を行儀悪くぺろりと舐める。 子供の様な仕草に呆れて、しかし表情には出ないよう気をつけて、アッシュは瓶に手を伸ばした。栓になっているコルクを抜くと、一瞬炭酸の気泡が弾けて顔に飛ぶ。 思わず目を閉じ、開いた時には細められた蒼穹が微笑んでいた。あるはずのない、温かな温度を感じて、アッシュは益々不機嫌になった。 「…お前は、もっと街の奴らと親密だと思っていた。」 自分の問い皇帝は、小首を傾げる。敬語の全てを取り払った、不遜な言い方だったが、ピオニーが気にしたのはそんな事ではないようだった。 「どういう意味だ、それ?」 嫌味を説明させられるというむかつきは液体と共に、腹に流し込む。 「…謁見室でも堅苦しさを嫌っているようだから、もっと愚民どもと仲良しこよしなので、馴れ合いで商品など献上させている思っていたという事だ。」 『列に並ぶ事もなく、金など払う事もなく』言外にそう告げてやれば、水色の目を真ん丸にしてから声を出して笑う。そうして、なぁ、アッシュと呼び掛けてきた。 「お前が反逆者で、俺を殺そうと思ったら、どこを狙う。」 そう告げ、悪戯な笑みを浮かべる。「宮殿? 謁見室? 執務室? 私室か?」 「…兵士が常駐している場所に乗り込むのは、死にに行くようなものだ。」 「じゃあ、街か?」 当然だ。無言で頷く。 「しかし、いつ俺は来るのかわからない上に、グランコクマは広い。お前は待ち続ける事が出来るのか?」 「暗殺とか早急な事を考えてるなら面倒くさい。それに、そんな組織力があるのなら正々堂々と正面から失脚を狙う。」 「では…と言おうか? 城を抜け出した皇帝が、いつも立ち寄る店がわかったら、どうする? そういう噂が立つだけでもいい。」 …。 「そこを皆殺しにして待ち伏せをする。もしくは、その家人を人質をとって、殺害を強要する…効率がいいだろう?」 唇が、謁見室でみせる不敵な笑みに変わっていた。けれど、それは一瞬で、先程までの呑気な笑顔に戻っている。 この男は、自分の為に国民と親しくしないのではなく、皇帝と直接顔見知りになる危険が街の人間にかからないように、そんな事にまで気を使って立ち回っている。 「屑が…。」 鬼畜眼鏡がどうしてこいつを大事にするのかわかった気がした。 こいつは自由奔放に見せかけ、我が侭放題を通しているように感じさせていながら、誰よりも己を顧みない。 孤独で崇高。王の気質を見せつけられた気がして、アッシュはアッシュは歯を軋ませた。 と、同時に絆される思いに、そんな感情が自分の中に残っている事に気付き、ひどく不愉快な気分になった。澄ました顔の皇帝が、食事を終えて幼子を見つめるような瞳でこちら視線を向けている事も気に入らない。 気付いた時には、行動に起こしていた。向かい合って座るテーブルに手をつき、身体を乗り出す。ペロリと唇の端を舐めてやってから、アッシュはにやりと嗤った。 「砂糖がついているぞ、ガキみたいだな。」 アッシュは舌先に感じる甘さを無視して、席を立った。 呆気にとられているように見えた皇帝にざまあみろとほくそ笑んでいると、名を呼ばれる。ピオニーが、ゆっくりと唇を親指で拭い目を閉じる。金色の睫毛が上がると、創り出される綺麗な笑みに、一瞬目を奪われた。 「…成程。伝言は、ナタリア姫に渡しておくよ。」 そう告げられ、アッシュはにやりと笑った男に目を剥いた。 〜fin
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