君の手のぬくもりが 今日は平々凡々の一日になる予定だった。朝起きれば、可愛い奴らの毛艶は申し分なく、餌箱にこんもりとつまれた朝御飯は完食。見ている俺の気分も爽快。 普段は其処に座した途端、逃走を考える執務もヒョイヒョイと片が付き、呆気にとられた執務官の間抜けづらを拝めるほどの余裕。両国のいざこざも本日はただの睨み合いで終わりを告げようとしている。 謁見に至っては、ゼロ。 あの、喧しい水音をバックに偉そうにふんぞり返って、カウンセラー並みに話を聞くこれでもかと『忍耐』を試される苦行も無し。 座って聞いてるだけとはいえ、腰と椅子の間にある隙間は、長時間座っていれば(この歳になれば)腰痛が気になるし、録音でもしてんじゃないかと思えるほど同じ事を繰り返す奴がいたりで、見た目ほど楽じゃない。 おまけに聞き漏らすと、後でジェイドにタップリと嫌味を言われる。ゼーゼマンやアスランはこっそり教えてくれるのに、本当に性根の腐った男だあいつは。 居眠りをこいた俺も確かに悪いとは思う、悪いとは思うが…。クイズ形式(それも五択だ)で、謁見内容を元にした報告書を作成した挙げ句に、点数までつけやがったのを悪行と言わずに何だと言うんだ。 つらつらと考えて、ピオニーはふわぁと大きく欠伸をした。あまりにも平和な一日。擦り寄って来た可愛いジェイドを膝に抱え上げて頬ずりをする。 ふいに、身体の中心がもやりとした。 余りにも上手くいきすぎた日。後で大きなしっぺ返しが待っているのでは…と頭に浮かぶ。まさか…と否定した刹那、伝令が部屋へ走り込んで来た。 「ジェイド…?」 ピオニーが名を呼んでも、その男は振り向きもしなかった。医務室のベッドの中で身体を起こして窓を見つめている。 「検査してみましたが、はっきりと原因は見当たりません。 推察するにコンタミネーション障害による記憶の混乱もしくは、消去だと思われるのですが。本日の訓練中に、謝って発令された譜陣の中心にいた様子で…。」 つらつらと流れる医術長の説明を右の耳から入れて左に流しながら、ピオニーは彼の横に向かう。 常に外される事のない眼鏡が、サイドテーブルに置かれていた。 「…これ、かけないのか?」 「私のものなのですか?」 質問に質問で返された。ピオニーは眼鏡を手にとり、変わらない美貌にそっと乗せてやる。不思議そうな表情をしながらも、ジェイドに抵抗はなかった。 「お前の眼に集まる音素を制御する大事なものだ。かけていないと、身体を壊す。」 「そうですか。普通に見えているんですが、必要なんですね。」 視力を調整するものではないのだとピオニーは思ったが、その事が目の前の男が記憶を失っている証拠に思えた。 己の命を左右する代物に、今の彼は余りにも無頓着だ。 「どなたか知りませんが、ありがとうございます。」 それこそ有り得ない手放しの笑顔と謝礼にピオニーは眉を顰める。キモイと普段なら言い放ってやる。けれど。 ピオニーは、思考を遮るように医師団に向き直る。 「記憶は戻るのか?」 「それが…。月並みな表現ですが、次の瞬間に戻るかもしれませんし、一生このままかもしれません。」 歯切れの悪い、しかし、正論にピオニーは言葉を失う。 「御苦労だったな。」 それだけの言葉を口に出すまでに掛けた時間は、とてつもなく長かった。 軽いノックの音と共に執務室の扉は開かれ、佇む男の姿にピオニーは息を飲んだ。 「ジェイ…ド。」 「こちらの書類に承認をお願い致します。」 「仕事…しているのか?」 何事も無かったように、普段と変わらぬ軍服を纏ったジェイドは、ピオニーと眼が合うと一礼する。未だに彼の記憶は戻らないと、先程医師から連絡を受けたところだった。 机の横に立ち綺麗に微笑む。邪気を感じない幼馴染みはまるで別人だ。 緋色の瞳も整った顔立ちも、変わったところなど何もない。凝視しているピオニーに困ったように、はにかんだ笑みを浮かべた。 「はい、身体に異常がないのに安静にしているのも申し訳なくて、簡単なお手伝いをさせて頂いております。」 何気なく、虐められたのか?揶揄を告げると、ジェイドは顔色を変えた。 「そんな事はありません。皆さんとても良くして下さり、勿体ない位です。 私は一個師団を持つ大佐だそうですが、こんな有様で大変申し訳ありません。」 必死の形相で頭を下げるジェイドに、ピオニーは言葉を失う。 余りにも違いすぎる。目の前の人物は姿形だけを似せた紛い物のようだった。これが、本当にあの『死霊使い』と呼ばれたジェイドなのか? 「陛下、書類をお願い致します。」 「あ、ああ。」 認印程度のもの。ピオニーはろくに書類を見ないままそれを押した。皇帝の手が微かに震え印が歪んだのを、ジェイドは不思議そうな貌で見つめていた。 死んだわけじゃない。二度と手に出来ないと決まったわけじゃない。言い聞かせてはみても、胸を塞ぐ重いものが退きはしない。 俯いた頬に何かが流れ落ちるのを感じて眼を瞑る。 片手で眼を覆う。近くに感じるジェイドの気配に退出を命じた。 扉の閉まる音を聞き、手を離す。 立ち上がると、窓辺に寄った。 『一人で泣くな』と、そう告げてくれた人間は、世界の何処にもいないのだ。 感情の振幅を決して人前に晒す事など叶わない身の上なのだから、これ位は許されるに違いない。そうすると、人前では口に出すのも憚られる想い出が、ここぞとばかりに溢れてくる。 微苦笑を浮かべて窓に額を押しつけると、ひんやりと宵の冷気が体温を奪う。ああ、ジェイドの手はいつだって冷たかった。 そんな事を思い出すと、ただ虚しさが募る。 「陛下。」 呼ばれて、ピオニーはギョッとして振り返る。 退出したはずのジェイドが其処にいて、悲しそうな表情で自分を見つめている。 「ど、うした?」 「…あの、僭越だとは思うのですが、陛下の様子がおかしかったように思えて。私では何かお力になれないかと思いまして…。」 台詞回しは、まるでアスランを思わせる忠臣ぶりだった。ピオニーは一瞬息を飲み。ジェイドの顔を見つめる。 躊躇いがちの笑みを浮かべて、やはりそれは『ジェイド』では無かったけれど、ピオニーは彼を呼んだ。寝台に座るように命じて、隣に腰を降ろし、彼の身体を其処へ鎮めた。 白いシーツに散る亜麻色の髪。 その様子は、以前と変わるものではなかった。不思議そうに自分を見上げている表情を除けば。 「陛下…?」 戸惑うような声の抑揚。記憶はないのだ、こんな感情を今のジェイドが持っているはずはない。それは充分にわかっていた。それでも。 「すまない…。」 それだけ口にして、白くて細い首筋に、そっと唇を這わせた。吸うと、鮮やかな華が白に散る。 鼻を擽る香りは、以前と全く変わらない。 「…きだ…。」 嗚咽に飲み込まれそうだった想いを辛うじて告げる。しかし、それ以上は言葉にならなくて、亜麻色の髪に顔を埋めた。 ただ、触れたくて、服に滑り込ませた手に、ジェイドが指を重ねてくる。その手が温かくて、有り得なくて目が熱くなっていくのがわかった。 どちらともなく絡まる指先は、いつの間にか固く握られていて…。 「陛下…。」 ジェイドがピオニーの敬称を呼ぶ。普段なら名を呼ぶだろう場面に、やはり胸が熱く痛む。 「何て貌をしていらしゃるんですか。全く…貴方という方は。でも、これは体勢が違いますよ。」 は? 気付くと、ジェイドに組み敷かれていて…、ま、さか、この状態って…。 ごくりと唾を飲み込む音が、耳に響いた。 「お前、記憶が。」 「指揮官が突然戦闘不能になった場合の訓練をと指示なさったのは、貴方ですよ、陛下。」 にっこりと、笑顔が見下ろしていた。 綺麗だ。此の世のものとは思えないほどに。 それが禍々しいことさえ除けば、ピオニーは心底見惚れていたに違いない。形良い唇に、赤い舌がぬめりと動く。 「期限は今期中であれば指定は無し。秘計とし方法は各自の采配に任せる。 明日には治る予定でしたが、余りにも貴方が可愛らしいので、今記憶が戻ってしまいました。」 「おっま…。」 ピオニーが罵声を口から出す前に、ジェイドは目尻に溜まった涙を音を立てて吸った。そのまま、耳元に唇を寄せる。 「我が主に御報告を申し上げます。第三師団は、この訓練の過程に於いて若干の支障を伴いましたが、概ね訓練の成果を発揮しているものと思われます。及ばぬ事象は、今後の問題点として追記させて頂きます。 但し、皇帝陛下におきましては、多大な問題が生じたことを認めて頂かなければなりません。」 ジェイドの口元に笑みが増す。ぞくりと背中に走るものがあり、ピオニーは引きつった笑みを浮かべる。跳ね起きようにも、両肩が抑えられていた。 「一人でお泣きにならないようにと、常々申し上げているのに、また約束を破りましたね、ピオニー。 ……お仕置きです。」 なんで、この状況で『俺』がお仕置きされなきゃならないんだ!!!!! 皇帝の反論は、結局翌日に繰り越された挙げ句、取り合ってすらも貰えなかった。 〜fin
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