過ぎた日の幸い


陽光の元で、あの方はどんな風に笑うのだろうか。』
『その髪はどんな風に輝き、瞳は何を見つめ、口にして下さる言葉はどのようなものなのだろうか。』
 あの薄暗い部屋を出て、最初に感じた。
 陽の輝く下へ彼を連れ出したいと、傍らで、そんな彼を見ていたいと切に願った。そうして、自分は、望みどおり彼の元にいる。

 けれど、それは忠誠だの生真面目だのと呼べるような精錬潔白な代物だったのだろうか?ただ、欲しかっただけなのではないのか? 
 
「アスラン。」
 再び名前を呼ばれ、即されたのだと思った。しかし、幾つかの言葉を口にしたアスランは、皇帝の視線が書類に落とされていない事に気付く。
 己の顔を彼に向けても、ピオニーは是と示す事はない。
「陛下?」
「お前は、俺に触れないな。」
 ポツリと口する言葉に、アスランは首を傾げる。
 何の事なのだろうか、さっき肩に手を置かなかった事を皇帝は怪訝に感じているのかと考える。ピオニーが、意外と気配に敏感な事は知っていた。
「は…。」
 質問の意図が読めずに、アスランは口籠もる。それを見遣って、クツリとピオニーは笑った。
「お前の指先は、随分と暖かそうだ…と思ったところだ。」
「私の、ですか。」

 やはり、意図は知れなかった。
頭に浮かんだのは、彼が冷たい指を知っているという事。そうして、それは、ある人物の像をアスランの中に結ばせる。
出会いの場。ピオニーが熱心に読んでいた本の著者は一体誰だったと今更ながら心に問うた。
 手袋をはめた自分の指を一瞥し、アスランは皇帝の肩を背中から抱き込む。ゆっくりと顔を傾け唇を重ねた。
 しかし、軽く触れただけのそれは、すぐに離れた。重なりあっただけ、温度を感じる事も何かが動いた感覚もしない。

 瞬きもせず、それを受け入れた後ピオニーは無言だった。
「申し訳ありません。」
 視線を逸らさずそう告げると、主は端正な貌は微かに口元を緩ませる。
「いや、彼女と幸せになれ、アスラン。
 全世界の幸せを独り占めにした気持ちになれる位にな。」

 形づくられた笑みは、余りにも柔らかく、アスランは己に向けられた表情をきっと一生忘れないだろうと思う。

「私は幸せです。恐らく世界中の誰よりも、私は彼女を愛しております。ただ…。」
 アスランは言葉を続けようとせず、もう一度皇帝に唇を落とす。今度は、仄かに感じる暖かさがそれを通じてアスランに伝わった。

 もう暫くこのままでも、よろしいでしょうか?

 懇願の言葉は、音にはならなかったが、振り払われる事のない腕は、寛容の意を示していた。
 
 

「失礼します。」
 ふいに開いた扉と共に掛けられた声は、ジェイド・カーティス大佐のものだった。アスランは不自然なまでに近付いていた身体を起こし、彼を見つめる。
 それを受け止めるジェイドは、常なる笑みを浮かべている。
「今日必要な書類が上がって来ないのもですから、足を運ばせて頂きました。」
「それは、申し訳ありませんでした。
 私の説明では、要領を得ないご様子で。ジェイド大佐、続きをお願い出来ますでしょうか?」
 ジェイドの笑顔が一瞬途切れた気がして、何故か笑みが零れた。
「では、私は執務に戻りますので、失礼致します。」
 アスランは軽く一礼をして、皇帝の横から離れる。扉の向こうから漏れる大佐の声に、皇帝の罵詈雑言が混じるのが聞こえた。

 確かにジョゼットを心から愛していた。
嘘も偽りもその心に混じる事などない。
 それでも心は過ぎ去りし日より、不器用にも変わる事の出来ないらしい。
 相手があの方ならば仕方無いと、アスランは溜め息を一つ付いただけで、常なる日常にその身を戻した。


〜fin



content/