消せない記憶、戒めにも似て 暴れだそうとする皇帝は、膝の裏側をしっかりと抑えると、罵詈雑言を浴びせかけてはくるものの大人しくなる。 『何処へ連れて行くつもりだ』という問い掛けには、軍部の医務室ですよと返事をした。それには一応の納得したようで、剣呑な気配はそのままだったが口も閉じる。 自分の靴音だけが響く医務室へと続く廊下。 皇帝の無事は先だって伝えられ、負傷している旨も伝達済みであったせいか宮殿や軍部も落ち着いたもの。こうして、皇帝を担いで向かう行為を咎めるものすらいなかった。敬礼をかえす兵士を見ると、下卑た思いが胸に浮かぶ。 『これから、自分が何をしようとしているか…。』それを知った上で、皇帝を尊敬して止まない兵士達が自分に敬礼を返せるのかとそう思うと口元に笑みが浮かんだ。 医務室に入ると、施錠したのちに君主を降ろす行為とは到底思えない状態で、相手の身体をベッドに落とす。 大きく軋むマットと、背から落とされた事で拘束された腕が痛み、それが背骨を直撃したのだろう、思い切り顰められた顔と呻き声は同時。 高く上がるかと思われる悲鳴は、食いしばられた歯の内側に留められた。 ベッドに腰掛け、身体をくの字に曲げている相手の側面に手を置いて顔を覗き込む。 「…いい加減にしろよ…。」 小刻みな呼吸の合間に返される言葉は、しかし、完全な怒りではない。 忠告を無視した挙げ句に拉致された事に対しては、後ろめたい気持ちを隠せない相手から、戸惑いに似た表情が見え隠れする。 でも、私はそれを怒っているのでありませんよ、陛下。 乱れ解れた金糸。目尻に雫を湛えた蒼穹の瞳。薄く開いた唇は浅い呼吸を繰り返し、そして、大きく乱された服からは首から鎖骨にかけて無数の傷が赤い線を残している。 それがひとつひとつ刻まれるのを確かに自分は見つめていた。 「どうしてそう、不機嫌なのですか?」 下から自分を睨み上げる瞳を見つめ、ジェイドは己の唇が弧を描くように歪んでいくのがわかった。それと同時に、相手の眉間に刻まれた皺が深くなる。 「望み通りにして差し上げたと言うのに。」 「ふざけるな…。」 揺れも戸惑いも其処に浮かばない澄んだ蒼。 「外せ。」 「嫌ですよ。さっきから、申し上げているでしょう?」 「ジェイド!」 「…貴方は、彼を罠に掛ける為に自らを囮に差し出した。 私の忠告を無視した事…は、大目にみましょう。けれど、自らの危険にあなたが無頓着すぎるのは許せませんね。」 詭弁だと心が呟く。これは、そんな高尚な理由などでは絶対に無いのだから。 嬲るように首筋に掛けられた手。再現するようにジェイドは自らもゆっくりと皇帝の首筋に触れた。大きく揺れた肩と、反らされる瞳。それを再び戻したいと願い唇を滑らせる。素肌を求めて差し入れられる手。 「…ジェ…イドっ…!?」 事態を察した皇帝の切羽つまったような叫びにさえ、言葉などもう唇に乗せるつもりなど無かった。 皇帝が完全に意識を喪失したのを見計らって手錠を外す。 安めで、こういう意図の為に作られたらしい稚拙な作り。金属の繋ぎ目に皮膚が食い込み、擦れただけではない剔られた傷が手首に残っている。あの男によるものか…それとも先程の自分の行為のせいか。 丁寧に傷口を洗浄し、治療を施した。 医療行為を終了させてから、情事に乱れた寝台ではなく清潔に整えられた別のものへ彼を移した。 あの男を…。敵対勢力に属したあの貴族を、音素の単位まで消滅させたかった。滲みひとつ無い皇帝の肌に、己の痕を残した男を生かしておく事など出来はしない。 その証拠に、仲間だった者達は、既に此の世の…否、人の形すらもしていないのだ。 けれど、そんな事をすればあの貴族が持っている情報を一瞬にして抹消してしまう事になる。皇帝が自らを差し出して行った行為が全てが無駄になる。 それでも…。『感情』が無理矢理引きずり出される感覚は収まらなかった。 普段感じる事の無い『感情』を収める術など、自分は知らないのだ。そう、猛る身体を鎮める方法は知っていたとしても。 幼い日。ピオニーが殺されそうになった場面に出会した時から、自分は彼とは別の意で『心的外傷』を背負ってしまったのかもしれない。 「馬鹿ですね…貴方も。 貴方を傷つけられて、私が冷静でいられる理由がありません。」 〜fin
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