鼻から入ってきた異臭いに一瞬息が止まる。
藻掻いても、口と鼻を塞いでいるものは離れそうにない。脳にまで突き抜ける刺激は目の前を真っ白にした。


消せない記憶、戒めにも似て


 意識が戻ると、真っ白だった眼前は真っ暗になっていた。
あなたの知らない世界にでも来たのかと思えば、目隠しをされているのだと気付き、溜息を付く。

 どうやら、まだ生きているらしい。

 自分の置かれている状態を判断して、ピオニーは再度溜息を付く。
 その場で殺さなかったのは、利用価値があると踏んでの事だろう。
 だからといって、大人しくしているのも性に合わない。まず、腕だけを軽く動かし、後ろ手に拘束されている事を知る。冷たい肌触りは金属だろう、足の方は普通に動くのを確認出来た。
「お目覚めのようですね。皇帝陛下。」慇懃無礼な声。
 何処かで聞き覚えがあるが、はっきりと記憶の中から浮かび上がってはこない。しかし、目隠しをされている事からも自分が顔を知っている可能性は充分に考えられた。
「俺を拘束してどうするつもりだ。」
 『おう、おはよう』というのも何なので、月並みな事を聞いてみる。
 ユーモアの欠片もなさそうな声だったから、つまらない答えしか返らないだろうと思っていれば、いきなり胸ぐらを捕まれ立たされた。
「随分と余裕がおありのようだ。自分のお立場を理解していらっしゃらないということですか?皇帝ともあろう方が嘆かわしい。」
 嫌味の垂れ方まで、定石だ。サフィールだって、もう少しましな受け答えはするだろう。苦笑が口元に浮かぶと、胸元を掴んでいた腕に力が込められる。
声色は罵声に変わった。
「何が、可笑しい!」
 お前だよ。…とりあえず、ツッコミは心の中で入れた。


 皮膚の破れる感覚とそこから液体が流れ出す感触。視覚が遮られている以上、通常より遙かに敏感に感じる。最初は頬に押し当てていた刃物は、相手の苛立ちと共にあちこちに疼くような痛みと傷を増やしていた。
 背にした壁は、押しつけられる度にギシギシと音を立てる。何処かの廃屋だろうか?薄壁の向こうからも声がする。自分を嬲っている相手以外にも数人の男達がいては、後ろ手に拘束された状態では、どうにも分が悪い。
『私の忠告を無視した報いですね。』あの男ならサラリとそう言うに違いなく、そんな事を考えていると、首筋に相手の手が当たった。
 ビクリと大きく体が震える。幼い頃に受けた心的外傷は、今だに身体を支配していた。
『ヤバイ』と鳴った警告音は、紛れもなく相手に気付かれる。
「どうしました?」舌なめずりをしているような声色に、初めて背中に嫌な汗が流れた。意思とは関係なく身体は震えている。
 ひたりと手を押し当てられ、ゆっくりと首筋を上下する。反射的に腹に蹴りを入れた。頭を振り、目隠しをずらすと床に倒れ込んでいる男と目が合う。
「おまっ…!?」
 見覚えのある下卑た顔は、一瞬ちっと舌打ちをしてから、にんまりと嗤った。
 立ち上がると、逃げようとした皇帝の身体を再度壁に叩き付けて、首の横に短剣を突き立てる。壁に刺さる血にまみれた剣に金髪がバサリと被ると刃先は皮膚に触れ、動きを封じた。片手で肩口を押さえながら、細い首を玩ぶ。
「や…め…。」
 目尻にうっすらと涙が浮かぶと、なおさらに行動は激しくなる。
 一国の主を屈服させられるという事実は、理屈では無く本能を刺激し、収まることを知らない優越感を男に与えた。求める言葉は自分への服従。
「…だ…れが。お前なんか…に。」
 ピオニーから返される言葉は拒絶を含み。しかし、切れ切れで、男はにたりと嗤いながら喉元に手を回す。その手から逃れようと皇帝は身をよじった。それは、男の手で押さえ込まれる。
 再度問われて、形良い唇を噛み締めた。金色の睫毛から涙がこぼれ落ちる、そして…。


「いつまで見てるつもりだ!!本気で嫌いになってやる!!」
 涙混じりの叫びに、男がぎょっと身を引くと、彼がいままでいた場所に深々と槍が突き刺さった。
「それは、困りましたね。」
 前に倒れ込むピオニーの身体をジェイドが支え、視線を男に向ける。不敵に笑う緋色の瞳が凄惨な色を帯び、形良い唇は吊り上げられた。
「陛下に手を出すとは良い度胸ですね。褒めて差し上げましょう。」
「死霊使い!?何故…此処が…。」
 兵士達に取り抑えられ、連行される男の呟きに、荒い息の下ピオニーは吐き捨てるように答える。
「お前らが待ち伏せしていた位だ…最初からこいつは見張りを立てていたんだよ。」
「その通りです。よくおわかりですね。」
「…おまけに、俺が助けを求めるまで黙って見ているつもりだったな。この鬼畜眼鏡!」
 瞳に涙を讃えての抗議に動じる事もなくジェイドはにこりと微笑んだ。
「いえいえ、遅くなって誠に申し訳ないと思っております。」
「ふざけるな…早く手錠を外せ!」
 しかし、自分を睨み付けたピオニーをジェイドは肩に担ぎ上げた。
「なっ…ジェイド!?」
「また逃げ出されても敵いませんからね。」
 ぐっと息を飲んだ後、ピオニーは顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。
「降ろせ、変態!!!」





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