眼鏡かぶってるんですが


 第七音譜帯に異変が起きたのは、ぶうさぎが剥離して間もなくの事。
ただ、天地を揺るがすようなものでは無く、各地に奇妙な出来事が起きると言う程度の代物だったが、それでも、異変は異変。
 原因を作ってしまったマルクト側が全面的に、対処する旨を各地に伝えると、結果的には皇帝陛下を含めた研究員が、寝ずの仕事をするはめになってしまった。

 何件か視察に飛んでいたジェイドからの資料を纏めて、ピオニーの私室に訪れたディストは、ソファーでうたた寝をしている皇帝と、その隣のテーブルで寝こけているガイを見てムッと顔を歪めた。
「こっちも寝てないのに、何であんた達が寝てるんですかー!!」
 キーキーと騒いでみても、二人は目覚めない。
 机からはみ出した書類を、ぶうさぎ達がはむはむと味わっているのを見て、慌てて口から引き剥がす。べっとりと付いた涎に、更に喚いてピオニーのところへ向かった。
「ピオニー起きなさい!私が纏めた有り難い資料を持ってきましたよ!」
 返事は無い。けれど、ディストは自分の持ってきた資料全てに皇帝の署名と対策に関する考察が書き添えられているのを見て、息を飲んだ。
「…やってあるんですか…ああ、そうですか。」
 ごにょごにょとぶうさぎの様に口の中で反芻すると黙る。
ジェイドは天才だったが、この男も決して馬鹿ではなく有能なんだとわかっていた。そんな事とっくの昔に知っている。そうでなければ、あのジェイドが仕えるはずなどない。ただ、認めたくなかった…それだけだ。
 『ピオニー』もう一度そう呼び掛けようとして、戸惑う。躊躇いがちに口にする呼び名。
「…へ……陛下…。」
 ううんと唸ってから、瞼は閉じたままで腕を伸ばしてきた。
指先が眼鏡に触れると、表情が柔らかくなる。
「ジェイド…。」
 腕に抱き込まれ、引き寄せられたディストの耳元でそう囁く。
しかし、ただの寝言だったようで、言葉は寝息にかわった。
 顔を向けると安心しきった幸せそうな寝顔。それだけで、どれほど目の前の幼馴染みがあの男に心を許しているのかがわかる。
 ディストはギュッと唇を噛み締めた。

 この男への呼び方と眼鏡、そして、側にいた時間の差。それが間違えられた原因。

 自分の事を好きだと告げる表情は何度も見ていたが、こんな無防備な顔を見たのは初めてだったのかもしれない。

嗚呼、『陛下』なんて呼ばなければ良かった。
眼鏡なんて、掛けなければ良かった。

 日の当たる事が少ない肌は滲みひとつなく滑らかで、微かにあの男の移り香がして、カッと頭の中が熱くなる。
 晒された首筋を見据えてから、ディストは唇を寄せた。



「陛下に渡していただけましたか?」
 皇帝の私室から出てきたディストにジェイドはそう問いかけた。途端、ディストは顔を真っ赤にして叫ぶ。
「もう、絶対あの男を『陛下』などと呼びません!」
 ジェイドの眉毛がひくりと上がった。

   廊下に響く轟音に、ガイとピオニーは眼を覚ます。
「なんだ!?」
 慌てて扉から顔を覗かせた二人の目に、のびている下僕と見下ろす鬼畜。
「ど、どうしたんだ。局地的な雷でも落ちたか!?おいっ、しっかりしろサフィール。」
 サフィールを抱き起こしたピオニーは、あちこち焦げている惨状に顔を顰める。
サラリと揺れた金髪を見ていたジェイドは、眉間に皺を寄せた。
「…陛下、首筋が赤いようですが?」
「は何処がだ?別にかゆくはないぞ?」
 首筋に手を当てながらピオニーはそれを傾げた。
 ジェイドの視線に吊られて目を向けたガイの表情がギョッとしたものに変わる。
ピオニーの鎖骨より上の部分に赤く鬱血した跡。それは、所謂一般的に言うところの…キスマークではなかろうか…?
 恐る恐る戻した視線の先には、白い顔にくっきりと青筋を立てたジェイドの姿。ガイは瞬時に顔を背けた。本能が見てはいけない呪われると叫んでいる。
「…天然もいい加減にしておいて下さいね。ピオニー。」
「!?へ?お前、何を怒ってるんだよ!?」
 手首を掴んで立ち上がらせると、そのまま私室に向かって歩きはじめる。
 腕の中にいたサフィールは再び床の人になり、ガイの冷や汗を増やすようなよい音が廊下に響いた。
「首がなんだって言うんだ、ジェイド!!」
「別に此処でご説明してもいいのですが、勿体ないのでこちらへどうぞ。」
「は!?おい!!」
 ピオニーを先に押し込むと、ジェイドはガイを振り返った。
「すぐに戻りますから、そこで待っていて下さい。」
 再び閉じられた扉の中を想像して、ガイは両手を合わせる。
 すぐ横で唸り声がした。旦那が殺しても死なない…と言っていただけの事はあるなぁとガイは苦笑いを浮かべる。
「あれ、あんただろ?…やる時はやるってか?」
 床に前のめりになったまま固まっている下僕はふんと鼻を鳴らした。
「眼鏡がかぶってるのがいけないんですよ。」


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