今世紀最大の大勝負


「ジェイド。」
 そう呼ぶと振り返った。よし、止まったかと思って近付くとまた走り出す。
 まるで、『お前じゃない』と言っているようだ。走っていくぶうさぎの後ろ姿を眺めてガイは溜息を付く。
「悪かったよ。陛下じゃなくて。」
 そんなに陛下じゃなきゃ駄目なんて、まるであの可愛くない方の旦那のようだ。
同じ名前だから、結局似てくるとでもいうのだろうか?
 ああもう、勘弁してくれ。
「なぁジェイド。仕方無いだろう?陛下は具合が悪くて散歩についてこれないんだから。この間、階段から落ちられて…。」
 切々と訴えても、豚の耳に真珠。(違います)ぶうさぎのジェイドは機嫌を直そうとはしなかった。
 ぶひ−っと鼻息も荒く、森に向かって走って行く。
「ジェイド!あんまりそっち行くと、魔物が出るぞ!」
 ガイの呼び声は、魔物の咆哮と重なった。
 

「もう、手遅れですね。」
 ピオニーの顔色が変わるのを確認して、ジェイドは言葉を続けた。
「私は獣医ではありませんが、ここまで酷い怪我では譜術も効きません。後は楽にしてやるのが一番ではないでしょうか?」
「…。」
「陛下…。申し訳ありません。」
 俯いていたガイが、言葉を絞り出す。
「俺がもっと気を付けていれば、魔物に襲われるような事には…。」
 ピオニーは、毛布にくるまれたジェイドを抱き締めたまま、首を横に振った。
額をそれに押しつけるようにして、下を向く。
「お前が悪いわけじゃない…。ガイラルディア。お前がいなかったら、きっと喰い殺されていた。」
 途切れそうになる声を努めて明るくしているのがわかる。その様子にガイは言葉に詰まり、ジェイドは眉を潜めた。
 こうやって、いつも本心を我慢させてしまうのだ。
 いつもいつも本当に告げたい言葉も、本当にやりたい行為も全て、皇帝として我慢させて来ているのを知っている。それが、彼の務めであるという事は認識していた。

 いいのでは無いだろうか…。ふと思う。

   国の存亡に係わるものでも無い、こんな時くらい、存分に我が儘を言って頂いても構わないのではないだろうか…と。
 家臣としてならば、直ぐに諦めて執務に戻るように即するべきだ。だが…。

「処分しますか…?」
 ジェイドの言葉に、はっと顔を上げたピオニーは、幼い子供のように無防備な表情を見せる。『これでは、ますます、甘やかしてしまいそうですね』ジェイドは浮かび上がる思いを表情に乗せないよう苦慮する。
「なんとか…何か手は、手を…。」
 しかし、ピオニーはそんなジェイドにはまるで気付かない。言い淀んで、また視線を落とす。
「…ジェイドは、それが可愛いジェイドの為だと言うか…?」
「いいえ、そうは思っていません。」
 ジェイドは、跪くと自分と同じ名前のぶうさぎを撫でた。
 弱っているはずのそれは、ジェイドに対しては威嚇してみせた。成程、死にたいなどと欠片も思っていない。楽にするなどと言うのは、所詮人間の都合にすぎない。
「これだけ酷い怪我ですが、死なない為の努力をしています。陛下は、どうお思いになりますか?」 「俺は『ジェイド』を死なせたくないんだ。」
 一息に告げられる言葉の、その微妙な響きと眼差しは、ジェイドの思いをまた深くする。

 『やれやれ、これが無意識なのですから困ったものです。』

 ジェイドは、眼鏡を指で押し上げながら溜息を付く。
「仕方ありません。まだ、試作段階なのですがフォミクリーの装置を使いましょう。」
「まさか、レプリカを作るってのか…?」
「違います。データを取って、損傷した内臓と皮膚の一部だけ移植しましょう。それならば、拒絶反応も無いですし、弱った家畜でもなんとかなるかもしれません。」  強ばったピオニーの表情が微かに緩む。同意を表して頷いた。
「予め言っておきますが、一か八かの勝負事です。『ジェイド』は、必ず助かるわけではありません。」
「俺は、勝負事には強いんだ。」
 皇帝陛下の軽口に、ジェイドも笑う。
 見ると、ガイの表情も少しだけほっとしたものに変わっていたが、それとこれは別。陛下を困らせた報いはそのうちにと、死霊使いは物騒な事を思い口角を上げた。
 そして、にっこりと笑って彼を呼びつける。
「ガ〜イ、その『ジェイド』をディストのところに連れていって事情を話し、データを抜いておいてもらって下さい。」
「旦那は?」
「私は陛下をお慰めしてから行きますので、手落ちのないようにお願いしますね。」
「…は、はい…。」
 邪魔をするなといわんばかりのオーラに押され、ガイは逃げるようにディストのところへ向かった。


「嫌ですよ。何だって私がそんな事…。」
 ディストはガイの話を聞くと、そう言って盛大に顔を顰めたが、ジェイドの頼みは断れず、ピオニーの落ち込み具合を聞けばもう仕方無く、『いい気味ですよ〜』と口では高笑いをしながら、生真面目に装置の調整にかかり始める。
 そして、音機関好きのガイにとっては、ディストの研究室はまさしく宝の山だった。可愛いジェイドを装置の前に置くと、手持ち無沙汰も手伝って、音機関を眺めてまわる。
 凄い凄いを連発するガイに気を良くしたディストも、調子にのって、フォミクリーの装置を実働付きで説明してみせた。
「こうすると、ここで音素が…。」
「お〜すげえ、で、此処と此処はどう繋がって…。」
「それは、こちらの駆動を利用してこうでこうですよ。」
「なんとっ!?じゃあ、こっちの此処は…。」
「それはですね。」
 二人の音機関馬鹿が目の前の欲望に溺れている間に、装置は密やかに動き始めていた。

「ぶひ。」
「ぶひ。ぶひ。」
「ぶひ。ぶひ。ぶひ。ぶひ。」
「ぶひ。ぶひ。ぶひ。ぶひ。ぶひ。ぶひ。ぶひ。ぶひ。」

 鳴き声に振り返ったディストとガイの目に映ったのは、機械の隙間からぽこぽこと現れる、可愛いジェイド達の姿だった。
 それは、あっという間に部屋の中に、そして城中に溢れていった。


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