手を取り合って


 子供だった遠い日。
 世界の中心にはジェイドがいて、彼がいなくなったら世界は終わってしまうような気がしていた。今思えば、ネビリム先生の死ですら、その事実を変える事など出来なかった。
 ジェイドと違って、自分は死を知っていたように思う。
ただ、自分の中の神でもあったジェイドが、『そんな事は無い』と言えば、真実のもつ意味などどうでもよかったし、騎士団に入って人を殺すようになっても、死を知らないジェイドと同じだと思い込みさえすれば、心が痛む事などなかった。

…要するに、全部ジェイドのせいにしていたとも言えますけどね。

 それを初めて目の前に突きつけてきた男がこいつで、一度は敵となったジェイドと並んでいられるのも、この皇帝陛下のご威光だ。
 自分の服の裾をギュッと握りしめたまま眠っているピオニーをぼんやりと眺めながら、サフィールは溜息を付いた。

 それは今朝の出来事だった。いつものように、軍部内に設えられた研究室に移動しているところに皇帝陛下が通りがかったのは、本当に偶然だったのだろう。
 朝の挨拶をされて、近付いて来た。
 今日がホワイトデーだったこともあり、何となく照れくさくて身体をずらした拍子に踊り場から足を踏み外した。ピオニーが手を伸ばして自分を掴まえようとしてくれたのはわかったが、気が付いた時には畏れ多くも皇帝陛下を下敷きにして、下まで落ちていたのだ。
 
 固く握られた手は、兵士達が剥がそうとしても離れず今に至っている。
 サフィールは、鼻を赤くしながら拗ねた表情になった。
 意識を失っても手が離れないのは、自分を必死で助けようとしてくれたせいなのだろうが、一緒に落ちていては意味が無いではないか。
 ふいに、ノックもなく大きく開いた扉から、眉間に皺を寄せたジェイドが入ってくる。手にしていたトレーをテーブルに置いてから、ベッドの横に座っていたディストを睨み付け、いきなり手を上げた。
「貴方という人は…!」
 ひいっと、身を竦ませたディストの目前に、庇うように腕が差し出される。
「…ジェイド…俺が悪かったんだ、サフィールを責めるな…。」
 いきなり手を引っ張られて目を覚ましたのだろう、ピオニーの姿に、ジェイドは上げた手を下ろすと、皇帝の顔を覗き込んだ。
「すまない。支えきれると思った。」
「未だ、顔色が悪いですね。
 普段の陛下ならそうでしょうが、過労です。少し私が虐めすぎましたか?」
 ジェイドの言葉にそうだなと弱く笑う。それを見やって、ジェイドは薬湯をピオニーに差し出した。
「これを飲んで、お休みください。私が付き添いますから。」
 それも怖いなと苦笑いはするが、大人しく言われた薬を飲み横になる。
ちらりとディストに視線を送った。
「ごめんなサフィール。巻き込んじまって…。」
「いえ…。」
 巻き込んだのは自分のせいだ。そう言いたくて言えないディストを見て微笑むと、もぞもぞっと布団の中に潜る。直ぐに規則正しい寝息が、聞こえてきた。

 眠っているピオニーを前に、隣に座す二人。沈黙の中で、時間だけが過ぎていく状態にディストはポツリと呟く。
「そう言えば、三倍返しって…。」
「貴方も、存外鈍いですね。どうして誰にも邪魔をされることなく、私が此処にいられるのかわかりませんか?」
「へ?」
「今日は一日、陛下と私の執務を止めてあるのですよ。最低限の執行は、議会の方で確認しているはずです。謁見も、視察も何も無い一日です。」
 向こう三年こんな予定の日はありません。そう付け加えてから、ジェイドはどす黒い笑みを浮かべる。
「一日陛下を一人占めのはずだったのですが、仕方ありませんね。」
 それは、ある意味『自分への贈り物』ではないのでしょうか?
しかし、ディストは自分の口から出ようとした言葉を両手で覆って止めさせた。とりあえず、命は惜しい。
 まぁいいでしょう。…とジェイドは眼鏡を指で押し上げる。
「貴方のお陰で、陛下は完璧な休暇が出来ましたから。」
 お元気ならば、突発的な執務が出てきたかもしれないが、これで無理を通そうとする者は皆無だ。
「…ピオニーは、本当になんともないのですか?」
 躊躇いがちな言葉に、おや気になるのですか?とジェイドが問う。
反発の言葉はなく、ディストは彼を見つめていた。
「…武術を収めておられる方ですから、受け身は完璧ですよ。先に言った通り、ただの過労です。」
 そうですか…安堵の溜息とともに吐き出される言葉。
「では、手も離れましたし、私は牢に戻ります。」
 そう言って立ち上がったディストに、ジェイドはここにいろと命じた。
「な…なんで!?」
「私は貴方が何処へ行こうと構いませんが、陛下が目を覚ました後で喧しいですからね。それとも、病み上がりの陛下を牢屋まで歩かせたいと言うつもりですか?」
 ぶるぶると左右に首を振って、ディストは椅子に座り直す。
「よろしい。座って大人しくしていなさい。今日のところは、陛下に免じて仲良くしておいて差し上げますよ。」
 薬湯とともに持って来たのだろう、紅茶をディストに差し出した。
そしてジェイドはにっこりと笑う。
「明日からは、陛下の目の届かないところで、首の骨でも折っていただけると助かります。」

『復讐日記に書いてやる〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。』

 ディストは溢れる涙と鼻水を啜りながらそう思った。


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