とりあえず触るな見るな近づくな


この頃、皇帝が憂鬱な表情を崩さないと、グランコクマの宮殿で噂話が広がっていた。何しろ、相手があの天下無敵の皇帝陛下。
 宮殿内・軍部内はもとより、都市全域でも広がっていたその中で、まことしやかに囁かれていたのは、彼が3月14日に返礼をする際に本命の相手にプロポーズをするのではないか…という物だった。
 そんな事で思い悩むような性格なのかと、側近なら思ったかもしれないが、未だに初恋の相手に未練があると言われている人物。その類には、意外と奥手なのかもしれないというのが、世論の意。
 政務に対する手腕とは別…という考え方は、むしろ庶民にも親しみを覚えるもののようで、余剰効果として皇帝に対する好感度は上昇というおまけまでついていた。

「カーティス大佐はどう思われますか?」
「何か陛下から、お聞きになっていらっしゃいませんか?」
 皇帝の幼なじみであり、親友と称されるジェイドにも質問は集中した。
「さあ、どうでしょうか?」
 食えない笑顔で返事をすると、死霊使いにそれ以上追及するツワモノ者はいなかったが、勿論ジェイドは理由を知っている。
 ピオニーは自分のお返しを警戒しているのだ。
 国外逃亡を図られるまえに手を打たなければいけませんねぇと、ジェイドはほくそ笑んだ。


 腕の中のサフィールをぎゅっと抱き締めると、ぶひっと鳴く。
もう一度同じ事をすると、ぶひぶひと二回鳴いた。
 三回やると…?
「三倍とか…三倍…ってあいつ何考えてるんだかなぁ。」
 ロクな事ではないだろうと、つき合いの長さが告げていた。こんな状況に、人は翼が欲しいとか遠くへ行きたいとか思うんだろうなぁ。いっそ、ケテルブルグにでも飛んでいきたい…。
 ある意味、奇妙にメルヘンチックな事を考えていると、扉が開いた。ジェイドが、笑みを浮かべて立っている。その様子にピオニーは、顔を歪めて見せた。
「何か用か?」
「いえ、ご報告まで。悪戯の類かもしれませんが、船舶に爆薬を仕掛けたという書状が届きましたので、14日までは検査等の警備を厳重にする事と、臨時便の欠航を議会が承認しました。」
 ひくっと、ピオニーの顔が引き攣ると、それを受けてジェイドの笑顔は更に深みを増した。
「ああ、それと言い忘れましたが、アルビオーレも定期点検中ですので、取りあえず。」
「取りあえず!?」
「はい、取りあえず。」
 笑顔を張り付けたまま近づいてくるジェイド。
やりやがったなと睨みつけても、馬耳東風。すたすたと近づいてくると、髪をひと房手に取った。ピオニーは怯むのも悔しい気がして睨み付ける。
「触るな。」 
 むっとしたままそう言うと、楽しげにこっちを見ている。
「見るな。」
 そう言って視線を逸らすと、追うように覗き込んできた。
「近づく…な。」
 思わず口にして、しまった…と思った。
 ネタを相手に振ってしまったようなものだ。意に反する事もなく、にやりと笑う顔が更に近づいてくる。不自然なまでに近付いた顔にピオニーは、眉を潜めると、自分とジェイドの僅かな間に、サフィールを詰め込んだ。
 ジェイドは、サフィールの鼻から垂れるものに触れる前に、距離を空ける。
「ひどいですね、陛下。鼻水がついてしまいますよ。」
「お前こそ、何考えてんだよ。」
「陛下の事に決まってるじゃないですか。」
「なっ…。」
 自分の言葉に赤くなる顔を見て、ジェイドは笑みを浮かべる。
「後もう一つ。陛下が、ホワイトデーに本命にプロポーズすると言うことになっているのをご存じですか?」
 そして、ピオニーの目が一瞬にして丸くなる。
「俺が!?何でってか…本命って誰だ!?」
「さあ。私に聞かれましても、噂ですから。
 14日は花嫁候補の方々が列をなして謁見にいらっしゃるかもしれませんね。」
 げっと呻いた皇帝は、抱き締めていたサフィールをジェイドに手渡すと、慌てて扉へ向かった。
 その後ろ姿にジェイドが問いかける。
「…陛下の好きな方はどなたですか?」
「お前とサフィールとネフリーだ。当たり前じゃないか。」
 躊躇いもなく返される答えと共に、回れ右をして帰ってきたピオニーは、サフィールを抱きしめたままのジェイドにギュッと抱きついた。
「ほら、好きだぞ。じゃあな。」
 バタンと締められた扉。ジェイドは溜息を付きながら、腕の中のサフィールを下を床におろした。鼻が押し付けられた軍服にはベットリと鼻水がついて滲みになっている。
「やれやれ…。」
 ジェイドは渋い顔をしながら上着を脱ぐ。
 近づくなとおっしゃった割りに、自分から抱きついていらっしゃるとは…そう呟くと口端を上げた。しかし…。
「どうやら、独占欲があるのは、サフィールだけではないということを知っていただかなければならないようですね。」
 その時、死霊使いが浮かべた笑みに、ぶうさぎのサフィールが震え上がった。


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