かえがえの無い貴方


 灯りは無い。
 窓も固く閉じられ幾重にも重ねた幕は、頑なに光を拒んでいるようにも見える。
 それでも、両手を床につき、項垂れている人物を間違えようもない。金を束ねた蒼い光が生き物のように揺れていた。目を凝らせば、輝きが彼が肩を細かく上下に震わせたり、息を吸い込むのと同時に跳ねあがったりしていると知れた。
 床にぺたりと座り込んだ足は履物をつけず、元々の肌の色を見つけることが出来ないほどの傷に覆われていた。服で見えない素肌にも多くの傷を残していると、容易に推察出来た。
 絨毯に付着し、青いそれを黒く汚している血液は随分と前に乾いてしまっているようだった。
 踏み出した足音を絨毯が吸い込み、部屋はいつまでも無音だ。おかしい。
 おかしいのだか、自分の動きに制限を加える力がない。床の人物を見下ろすほどにけば近付くと、その気配からか顔を上げた。
 絹糸のような金の髪は絡み合い、泉のような澄んだ碧は紅に浸食されていた。血色の良かった頬は肉が削げ落ちて、隈も深い。それなのに、己の姿に焦点を合わせた後に、彼はにっこりと微笑んだ。
 ゆっくりと身体を起こし、膝立ちのまま向きを返る、両手を大きく広げてくる表情は、やはり満面の笑みを浮かべていた。
 踏み出そうと試みて、躊躇う己の身体を知っているように彼の身体が大きく傾いだ。咄嗟に差しだした腕にしがみつき、それを伝って首に巻き付いてくる。
 思ったとおり、腕にも大きく開いた胸元にも無数の傷痕が残っていた。彼自身が、つけたものだと、根拠なく思う。
 思考を遮る身体はなおも自分に密着して、あの男よりも余程太くて逞しい腕だの、胸板だのをしっかりと自分の身体で感じとる事が出来た。鼓動を打つ規則正しい音が鳴る。そして、その音だけは消えることがない。

「…れ…。」

 いけません。喉からだそうとする声は残らない。

「くれ…よ。…なぁ…いいだろう? 欲しいんだ。」

 『欲しくて、欲しくて堪らない』声を出しながら、這う唇から出し入れする舌の首筋への刺激に肌が震えた。汗と香が交わる彼の体臭を吸い込む度に、鼻の奥が浸食されて思考を白く染め上げていく。とろりと堕ちる瞳は、唯一の光を湛えて導いた。


「お前を、くれよ。グレン…。」




 
 目覚めた途端、身体はびくりと硬直した。
生々しいと感じるほどの鼓動だけがやけに耳に残り、それは自分自身のものだと気付くとやっと大きな息が漏れる。
 そして、今度は圧倒的な罪悪感が襲った。
 いかなる理由をつけたとしても、あの方は主君であり尊敬して止まない人物。そして、性の対象などになるはずもない同じ性を持つ方だ。それを辱めている夢など、全くもって不遜な話。
 けれど、内容的には随分と問題の多い夢の、その深層心理の言わんとする事象をグレン自身は自覚していたのもまた、事実。
 夢の中で確かに言っていたと思い返し、根深いものだと再び息を吐いた。

 決して寝心地が良いとは言えない、簡易ベッドから身体を起こすと、大量の汗が身体を伝っていくのがわかった。入口としてつけられた幕をめくっても、周囲の闇に変わりはなく、夜明けには幾分時間がある。着替えてしまうには早いと判断できたが、湿り気を帯びた衣服は不快で、上着を脱ぐと手拭いで身体をぬぐった。
 ガサガサの毳立った乾いた布で素肌を擦る感覚は決して気持ちの良いものではなく、しかし、明らかに存在を主張する快楽を見事に遠ざけてくれた。
 一旦、手拭いをベッドに置き、下履きも脱ぐ。
 抜いてしまいたい欲求は、恐らくこの状態では主君を(おかず)にして抜かざる得ないという事実の前に諦めた。百歩譲って、揶揄的な意味を持つ夢には罪はないとしよう。しかし、此処で現実に欲望を吐き出せば、それは紛れもなく彼を汚す行為に値する。
 皇帝に、ピオニーという男へ欲情している。

 それは、グレンにとって認める事など到底出来はしない。それも、あの男への対抗意識が呼び込んだものだと自覚出来る以上、その心情に従うつもりもない。
 『ジェイド・カーティス』
 稀代の天才と呼ばれる皇帝の懐刀。登城したグレンに与えられたのは、数日前から一個師団ごと行方不明になっている彼等の捜索だった。 
 グレンは彼に好意を抱いてはいない。皇帝の幼馴染みという立場上か、彼の態度は何処か辛辣なところがある。謙っているように見せかけて皇帝に不遜な態度をとり続けているようにも感じられ、皇帝の信頼が厚いのを感じるにつけ、どうにも収まりのつかない苛立ちがグレンの中に沸き上がってくる。
『自分の方が上手く出来るのに。』
 そんな子供のような対抗心では決してないと言い切りたい己と、その任すら命ぜられないと思う不等感がせめぎ合う。裏を返せば、それほど自分は、ピオニーという皇帝に傾倒しているとも言えた。
 
 それが、行方不明だ。

 謁見した際も『どこで何やってんだろうな、あいつは』と、軽く返答をかえした皇帝に、隠しきれない何かを感じたと言えば、勘ぐりすぎているだろうか。
 疲労の色を濃く感じたのは嘘ではない。しかし、それはジェイドという男に対してではなく、彼が赴く事となった厄災が、国民に及ぼす悪行を案じてのことだとも思えし、寧ろそれが強いとグレンは思う。

 けれど、陛下が『かけがえのない』と思っているだろう人物を、彼から失わせてしまう事は出来ない。夢と同じく、ジェイドを失う事によって皇帝が崩れてしまうとは思わないし、自分を求めてくれるとも思っていない。
 それでも、敬愛する皇帝が心を痛めると感じれば、その障壁を砕いて差し上げたいと願う己がいる。どれほどに自分は彼を慕っているのだろうかと考えれば、笑いが漏れた。
 まだ、陽は登らない。
 グレンは瞼を閉じ、かの人を写しだす。濡れた蒼穹の眼差しは、夢とは思えないほど鮮明にグレンの中に蘇ってくる。
「お許しを…。」
 小さく懺悔の言葉を呟くと、躊躇い啼く解放を望む身体に手を掛けた。


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