血に濡れた両の手


 気が付くと屋敷に帰りついていて、ガイはどさりとソファーに腰を沈めた。
「…近頃酷くお疲れですな?」
「そうかな。いわゆる五月病かも。」
 労いの言葉共にペールはお茶をテーブルに置いた。ハーブティ。爽やかな香りが、鼻を擽る。
「音機関にも、手が伸びないご様子で。」
 付け加えられた言葉に、ガイは嗚呼と思い当たった。毎晩部屋へ帰ると弄っていたそれに、近頃手を触れていない。興味を引かない訳ではないのだが、何故か気持ちがそこに至らない。
 気分が酷く散漫なことだけは、ミス続きの仕事からも推測出来た。

「きっと…疲れてる。」
 吐き出す息のような台詞にベールが眉を顰めたのが知れたが、ガイは敢えてそれ以上の言葉を続けず、紅茶に口をつけた。
 ファブレ家でも口にしたことのない上品な味わいに、一瞬瞠目する。仰ぎ見たベールはガイの質問を知っているように笑みを返した。
「皇帝陛下から使いの方がいらっしゃいまして、ガイラルディア侯へと拝領いたしました。明日、午後のお茶までに、これにあった菓子を献上しろとのご命令で。」
「…。」
 聞いた途端、ガイは肘掛けにのせていた腕に頭を置き、苦笑した。たいがい見透かされている。なんて人だと確かに感じる。
「ペールは、前皇帝にも仕えてたんだろ? 今の皇帝陛下をどう思う?」
 おやと言いたげな表情で、老人はガイを見つめた。
「そんな事は私にお聞きにならずとも、ガイラルディア様が充分にお感じでいらっしゃるでしょうに。」
 そう告げると、二の句が繋げないガイを残して部屋を下がった。

 類い希な賢帝、我が剣を捧げるに値するであろう主君。
その言葉がひとつたりとも間違ってはいない事をガイは感じる。ついこの間までは、それで充分納得も出来た。けれど、今は足りないのだ、そんな理由は、全く自分を満たしてくれない。
 気付いてしまった情には、思ってもいなかったほどに心が乱された。
 これが、憎悪なら良かったのだとも思う。だったら押し留めてもいられた。
 対処の仕方だって経験済みで。いつまでも、一方的な憎悪の焔を自ら煽り続ける事など出来ない事も知っていた。必ず、いつかは姿を変えていく。なのに、同じように胸中で燃える火は、燻ることを止めない。
 手にする事など敵わないと知っているからこそ、余計に求めて止まないのかとも思うと、馬鹿馬鹿しさに笑いが漏れた。手に入らない故に欲する。ならば、手に入れば欲する事を止めるのか? そんなはずはないだろう。恐ろしいほどの堂々巡りだ。
 結論など出るべくもない。
 つまり、ガイに残された結論は、明日皇帝の趣向にあう菓子を買い求めて、登城せねばならないという事実だけだった。

 


「ガイはまだ、登城していないようですね。」
 ご機嫌伺いですと顔を出した死霊使いは、うんざりした顔で書類を眺める皇帝にそう問いただした。ピオニーは軽く頷き「お使い」だと告げる。
「どうにもガイラルディアの様子が変でな。ぼ〜っとしてたかと思うと、ばたばた慌てたり、役に立たないから買い物に行かせた。」
 ジェイドは眼鏡を指で押し上げながら黙って聞いていたが、最後には深い溜息を洩らす。
「随分重宝していらっしゃったようなのに、役に立たないとは冷たいものですね。」
「仕方ないだろ? 戸口で覗いてるのに気付いているのに、止めないお前が悪い。」
 不機嫌な表情へと変わるピオニーを眺めてから、にっこりと微笑んだ。
「熱病のようなものかと思いましたので。」
「熱病だったら、俺の良いおもちゃだろ?」
 はんと鼻を鳴らすと勢い良く机から立ち上がり、ジェイドの正面に向かう。腕を組んで睨み上げる。
「捜索は上手くいっているのか?」
「芳しくはありませんね。ホドが沈んでから随分と時間がたっているのですから、今更表だって動いてはくれはしないでしょう。宮殿の中に違和感無く入り込んでいる確率は決して低いものではありません。」
「俺の直ぐ側にも、ホド出身の奴がいるからな。」
 拳を唇に当て笑いを噛み殺す相手に、ジェイドは鋭い視線を投げた。冗談ではすまないでしょうと、その緋石は問い掛けていたが、受け止めた蒼穹はただ瞳を細めた。
「熱病でないのなら、取り込む術を考えるまでだ。いいから、お前はお前の仕事をしろ。でないと、俺はお前を引き留めるぞ。」
 組んでいた腕を解けば、そのまま指先はジェイドの髪を掴む。くるりと束に絡めて引けば、身体が付いてきた。
「なんだ、良いのか。」
 くくと笑う皇帝に、ジェイドは眉間に皺を寄せた。
「恐れながら、私の髪にも神経という代物が通っているのですから、引っ張られれば痛いです。」
「それは初耳だったな。」
 柔らかなジェイドの髪に口付けを落として、ピオニーはその指を離し、身体ごとジェイドから距離を置いた。
「行け。そして、機会を逃さぬようにしてくれよ。」
 にやりと口角を上げ、悪戯めいた表情を隠そうともしないピオニーに、ジェイドは眉を潜めた。目の前の皇帝陛下が、どうやら芳しくない事を企てている事はわかる。 大人しくしていて下さいと言ったところで、忠告が意味を持たない事も良く知っていた。
「貴方を失ったら、私は何をするかわかりませんよ?」
「ああ、愛されてるから大丈夫だ俺は。行け。」
 再び、重厚な椅子に腰を落とせば、軋み音も生まずに皇帝を仕事が山積みになっている机に戻す。
 皇帝の執務室にペンを走らせる音が響けば、普段とは逆の立ち位置に苦笑する放って置かれる居心地の悪さなど、この男は本気で思った事があるのだろうか?
 あれだけ、自分の部屋で邪険にされても、毎回通ってくるという神経はいかがなものでしょう?
 ジェイドは、目の前の仕事をしている皇帝に向かい、仕事をしていないときと同じように眼鏡を抑え深い溜息を付いた。



ツインテールの少女をふいに思い出したのは、彼女が料理上手である故だ。彼女なら相談に乗ってくれるだろうなぁと思い、きっと金銭を要求されると確信し、ガイの顔に苦笑いが浮かぶ。
 たっぷりと半日は費やしただろうか。『これ』というものが見つからない。この程度ならば及第点と呼べるものは数点あったのだが、どうしてもと思い当たるものを探し当てる事が出来ないのだ。
「参った」
 軽い溜息は宮殿に向けられた。茶菓子が見つからないというよりも、金の皇帝に、満足そうな笑みを浮かべて貰いたいと思ってしまう自分にも参る。舌の肥えた御仁だ。率直に美味いと口にはしないだろうが、躊躇い無く皿に手を伸ばしてもらえるほどの代物を献上したい。そうして、微笑んで欲しいと思うし、見つめる蒼穹を反らしたくないと思う。見え見えの欲求を溜息と共に吐き出しながら、どうにも可笑しな街の様子に碧眼を眇めた。
 常にグランコクマの治安を預かっている部隊ではない者達の姿をあちこちで見かけた。それも、第三師団に属するもの。つまり、ジェイドの部下達だ。
 先だって、不穏な輩がと口にしていた美貌を思い出した。
皇帝に仇為す輩となれば、自分としても見逃す訳にはいかないが、如何せん何も聞き及んでいない。どうも、秘密裏に行われていることのようで、普段のもう少しはましな状態の自分ならば、確実に嗅ぎつけているだろう情報を今は全く手にしてはいない状態だ。
 無能さ加減にも感心してしまいそうだが、主君に愛想を尽かされる前になんとかするべきところだろう。
 
「とにかく、菓子だ。菓子。」

 任務遂行中の兵士を横目に、ガイは市場を斜めに通りすぎた。メインの場所には、常なる店と行商人の店が並んでいるが、ひとつ奥まった場所には、頻繁に訪れる事のないキャラバンが店を構えていたりすることもある。
 此処になければ、先に選出してたものから一品決めて帰ればいいだろう。そう思い、ガイは脚を早めた。
 案の定そこには、数点の出店が軒を並べていた。
ただ、そこにあったのは代わり映えのない品物で、ガイの期待はあっさりとうち砕かれた。しかし、懸命に呼び込みをする店の一角。
 声を張り上げて客を呼ぶ声に、ホドの訛があることに気付いてガイはその行商を覗いた。こぢんまりとしたテントの前には、紅い絨毯が置かれ様々な品物を並べている。店先には、親父がひとり。しかし、その後方でも人の気配はしているから小隊程度のキャラバンなのだろう。
「お、兄さんいらっしゃい。」
 愛想の良い親父は、ガイを満面の笑顔で迎える。ただやはり、置かれた品々はさほど珍しいものでも美味そうなものでもない。苦笑したガイの様子がわかったのだろう。それでも、親父はめげずに、彫刻を取りだしたガイの前に翳した。
「失われた島に眠るといわれる彫像だ。どうだい、素晴らしいだろう?」
「ああ、俺が探しているのは菓子なんだ。彫像は食えない。」
 ひらひらと親父の手を振りながら、目の端に写ったそれにガイは一瞬息を飲む。ホドに縁のある真っ白な女神像は、確かにガイにも見覚えがあった。
「お、見惚れましたね? お兄さん、お目が高い。」
 大きく膨らんだ鼻の穴から、全ての息を吐きだしそうな勢いで空気を排出しながら、親父は声を張り上げた。そうして、楽しげに、ガイの肩に手を置いた。
「…っ!?」
 肩にふれた指先がガイの表皮を焼く。その軽い仕草とはまったく相容れない重さが、ずしりとガイの内面を重くした。
 何処かで味わった不快感にガイは眉間に深く皺を刻んだ。奇妙な汗が身体全体から溢れてくるのがおかしい。赤毛の子供が、心配そうに覗き込んでいた様子が頭に浮かんだ時にはガイは肩を押さえ込んだまま、道端に蹲っていた。



 ブーツを鳴らす音が、廊下に響く。お茶の時間には、少しばかり遅い時間だ。
 その音を聞き咎め、ピオニーは眉を潜める。何処か不規則な足音が、経験という名の情報中枢を刺激するのだ。
「遅かったな、ガイラルディア。」
 それでも、開いた扉には愛想良く向かった。
「申し訳ありません。これ…という菓子が無かったものですから。」
 ガイは白い布につつまれたものを小脇に抱えて、困った表情で頭を掻いた。疲労の色を浮かべた顔が、街中を探し回っていた事実をピオニーに伝えくる。
 
「貴方に、相応しいものをずっと探していました。」
 
 声が、眼差しが、何処か夢を見ているように定かではない。熱に浮かされたようにその足取りすら定かではなかった。
「ガイラルディア。お前の言い方だと、俺の側にあるものは相応しくない…そう聞こえるぞ」
 挑発するように眇めたピオニーの瞳がガイの脳裏を焼いた。王なる者の褐色の手が、ガイの頬を撫でる。柔らかくそして性的な動きをガイに感じさせながら、指先は顎へと落ちた。
 にまりとピオニーの唇が弧を描き、クスクスと吐息がガイの耳を擽る。

「俺に相応しいのはお前…か?」
 同じ色味を持ちながらも決して鏡にはなり得ない人が笑う。
魅せられ、引き寄せられて近付くガイの唇を、しかし、皇帝の言葉が制した。

「……それとも、ジェイド?」
 
 言葉が聞こえたのは耳ではなかった。ガイの心臓に刺さるがごとく、皇帝の口から発する名前は血液に混じりガイの全身に行き渡る。
 深く思い合っていると確信出来る口付けを交わす相手は、自分ではない。その事実に体内に埋め込まれていたものが、一気に膨れ上がっていく。それでも、ジェイドに対しての憎しみなどではない事だけが自覚出来た。
 欲しいのは、唯ひとりで。それ以外の人間など、どうでもいい。

 上質な絨毯の上に、粗末な白い布が落ちた。
ガイの掌に鈍い光が残り、大切な贈り物を届けるが如く相手に掲げる。
 深くもっと、深く。
 ガイは、両の手に力を込めた。刀は、その輝きに恥じない鋭利さで、肉を断つ。
 届けたかった、己の心を彼の奥深くまで。そして、其処に埋め込みたい。何者の浸食も許したくない。
 ああ、そうだ。凶器は『男性自身の』象徴だと聞いた事がある。

「ガイ…ルデ…ぁ。」
 
 血まみれの手が服を掴み。声にならない言葉が、その唇から漏れる。
乱れた呼吸は、情欲をそそった。

「愛してます。陛下。」 

 重ね合わせた唇のまま、ガイは両腕に力を込めた。


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