逃げ水を追いかけて


 うう〜んと大きく伸びをして、胸一杯にそれを吸い込む。
 日中なら開放されている庭園には、人々が散歩を楽しんでいるけど、今は深夜。
誰もいない。威厳とか、格式とか取り去っても咎める人物は、(とりあえず)一人しかいない。
 そいつも呆れ果てているのか、敷き詰められたタイルの上を、同じ色を選別しながら歩く俺を見ているだけで何も言わない。
 それを良いことに、すでに鼻歌まじり、軽いステップ。自分が見ている風景が四角く切り取られたものじゃないってだけで楽しい。
 そして、何よりも、誰かが横にいるって事実が嬉しい。勿論、警護の兵士をつれているのは一人じゃないだろうってのは論外の方向で。
 
「いつまで、子供みたいにはしゃいでいるつもりですか?」

 ジェイドは両手はポケットにつっこみ、無表情で窘められる。
まぁ、いつも通りと言ったところか…。
 足を止め返事をしようとして、あいつの長い栗色の髪が夜風に踊っているのを見つめた。俺の背中に月があるから、光を正面から受けたジェイドはとんでもなく別嬪だ。
 眼鏡の奥。緋色の瞳が月光を受けて、青白く光る。ぞくりと背筋に何かが走った。その美貌を形作る唇が緩やかに弧を描く。

「どうしました、陛下。」

 一瞬、あいつの髪が蜘蛛がかける糸の如く見えたのはどうしてだろうか。胸が奇妙にざわめくのは、一体何の予感なんだ?
 
「いや…別に…。」
 ふっと溜息を付いてから、ジェイドは眼鏡を指で押し上げる。
「先程、昔の方が良かったとおっしゃいましたね。」
「ああ…。」
「私はやはり、今の状況を可としますよ。」
「つれないな、お前は。」
 苦笑して、あいつの貌を眺める。俺の拗ねた様子に気付いたのか、また溜息だ。
「結構ですよ。貴方を護る為には今が一番良い状況です。こんな馬鹿な真似さえしなければ、確率的には高い数値を得る事が出来ます。
 戦場で貴方を失う事を思えば、今がどれほど安全なのかおわかりでしょう?」
「…皇帝を暗殺したい輩は、それこそ星の数だろ?」
 くくっと笑いながら、夜空に大きく腕を回す。
「聞き分けの無い方ですね。」
「俺は、覚悟を決めて皇帝になったんだ、死すべき時にしか死なねぇよ。」
 ジェイドの眉が顰められ、苛立ちが募っているのが手に取るようにわかる。
「戻りますよ、陛下。」
 それでも、あっさりと背を向け歩き始める。こちらへの気配は消していないから、万が一暗殺者が現れても充分対処可能と見てる。大した自信だよ、ジェイド。


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