逃げ水を追いかけて ソファに脚を引き上げて、肘掛けにどっかりと乗せると仰向けに転がった。 目頭が…とか言ったところで、デリケートなおっさんなんて鬱陶しいだけだよな。 はぁと、ジェイドに聞こえないよう息を吐いて目を両手で覆う。 サラサラと、紙と手の擦れあう微かな音。静かで、規則正しくて。寂しいけれど、落ち着くような不思議な気持ちで胸が充たされる。こういう空間は、嫌いじゃあない。 「陛下。」 敬称を呼ばれて、沈殿していた(要するに眠りかけてた)意識が浮かび上がった。 ああ、俺…そうだな。 即位して半年たって、やっと気付くか。ゆっくりと眠る夜がなかった、なんて事。 自分の命が狙われてても、眠れない夜なんかなかったのに、預かるものが出来た途端に、これか? 随分と弱っちいな、俺は。 うにうにと目を擦り身体を起こすと、顔を上げていたジェイドと目が会う。 あれ?なんだ?見たこともない紅玉。ちょっと待て、ジェイドの瞳が熱いと感じるなんて、やっぱりこれは夢だ。 あの、雪国の代表選手みたいな奴が、んなはずがねぇ。 「寝ぼけているんですか?」 「そうかも…。」 はぁ…と大きく吐く息と共に立ち上がる。扉を開いて、手に持っていた書類を手渡し一言二言いいつけると、見張りの兵士はいなくなった。 右脚を支点として弧を描くように優雅に振り返る。 「行きますよ。陛下。」 「あ、ああ。」 椅子の背もたれをひょいと乗り越えて、ジェイドの苦虫を潰した顔の横に並ぶ。同時ににっこりと笑ってやった。こいつとのお付き合いの基本はまず笑顔だかんな。 どんな嫌味がくるかと思えば、無言で背を向けた。ゆっくりと踊り場を階段に向けて歩き出した。肩すかしをくらい、相手を凝視してしまう。 柔らかな亜麻色の髪がふわりと揺れたり、すっと伸びた細身の肢体が左右に揺れる事もなく進んでいくところとか、見つめた。 そんなものですら、近頃お目に掛かった事は無いと気付く。まあ、皇帝を部屋に残して、部下が退出するなんてぇ事があるはず無いからな…。警護兵に囲まれた俺の背中をこいつが見送る方が遙かに多い。 自分の背後に気配が続かないのに気付いたのか、ジェイドが振り返る。 威圧感に満ちた、鋭い眼差し。すっと目を細める。 眼鏡の奥の緋色の瞳。今夜はやけに色が濃く感じるのはどうしてなんだろうか…。 「どうしました?既に迷子ですか?」 来た、嫌味。 「ああ、手でも引いて貰わねぇと街まで出ていっちまうかもな。」 「馬鹿な事を…。」 心底嫌そうな顔しやがった。ま、わかるけど。即された通りに、後を追う。その後は警護兵の注意を巧みに反らしてくれて、俺に気付かせる事もなく建物を出た。 綺麗な月夜。満天の星空も、それに邪魔されて光を控えているようだ。 しっとりとした夜の空気が、心地良い。 content/ next |