首筋に残された痕


 旦那の首筋に残された赤い線。
普段は見えないであろう、首の後ろ。背中に長く垂れた髪に隠されたそれが垣間見えたのは、唐突に通り過ぎた風のせいだった。
 右斜め上から下へと、白い肌にそれは余りにも鮮やかな色で、ほんの僅かな時間にも関わらずやけに鮮やかで印象深い。

『爪痕…だよな?』

 未だそういうものには経験不足を感じる自分に出来た事は推測だけだが、この死霊使いにもそんな欲求があったのかと、驚きを感じた。
 相手に痕を残させる程の激しい行為と目の前の男が結びつかない。それほどまでに、他人を求める事があるのだろうか。
 意思とは無関係に腹の中でずくりと疼き、追い詰められていく。そんな状況が、ジェイドに起こりうるかと問われると、どうしても。首を傾げてしまうのだ。

 自分には充分自覚がある事柄なのだが。

「……で陛下が私室でお待ちですよ。」
 かけられたジェイドの言葉に、ガイは慌てて頷いた。
 エルドラントから帰還した後に赴いていたファブレ侯爵のところから、たった今戻った桟橋で、二人は会話を交わしていた。奇妙な様子に気付いたのか、ジェイドは口元を微かに上げる。
 緋色の瞳が何か?と問うた。
「…や…別に…。帰って早々、ぶうさぎの散歩かなって思ったもんで。」
 場を取り繕う事に自信はあった。けれど、今は相手が悪い。
「聞いていなかったんですか?。世界を救ってくれたご褒美だそうです。」
「へ?」
 服か何かだろうかとガイは首を傾げてから、気付く。
「旦那は貰ったのか?」
「ええ、お先に。」
 意味深な笑みに、多少の引っかかりを感じる。
「ただ、貴方へのものは決めているように思いましたがね。」

「帰還の御挨拶が遅れ、申し訳ありませんでした、陛下。」
 そつのない挨拶に、私室のソファにもたれ掛かっていたピオニーはくくっと喉を鳴らした。ブウサギ達も相も変わらず部屋の中を闊歩している。
「ジェイドに聞いたと思うが、褒美をやる。何がいい?」
「いえ、俺は別に…そういうつもりで戦った訳ではありませんから。」
 何だ…決めてなんていらっしゃらないじゃないかと思いながら返した答えに、ピオニーはさも可笑しげに笑い出す。
 額に手を当てて空を仰いだ。そんなに変な事を言っただろうかと、ガイが訝しく思い始めた頃にやっと蒼穹の瞳が自分に向けられる。
「絶対そう言うと思っていたよ、ガイラルディア。」
 
そういう言い方は小狡いな。

 思いがけない皇帝の言葉に、一瞬顔を顰めそうになる。押し留める事が出来たのは、使用人根性のお陰だったのだろうか?
「おっしゃっている意味が…。」
「何故、今居を構えているマルクトに帰らず、キムラスカに向かった?」
 ガイの心臓がドクリと鳴った。皇帝の目が細められ、微妙に輝きを違えた蒼穹が交わる。
「お前が一番欲しいものがファブレ侯爵のところにあったんだろう?
 なら、どうして此処へ帰ってきた。どうして、それに縋りついてこなかったんだ。」
 苛つく程にこの皇帝は鋭い。
「…‥過去に捕らわれている弱さは、もう御免被ります。」
「なら問うぞ、ガイラルディア。ルークはお前の弱さだったのか?」
 間髪入れずに帰ってくる答えには、もう二の句を繋ぐ事が出来なかった。


俺は、ルークを守ってやってるつもりで、彼の手助けしていたつもりで
けれど、ルークに寄りかかっていた。
ルークに依存して、自分の存在を確認していた。
それは事実だ。


  「違うというのなら、俺を利用しろ。褒美をくれてやると言ってるだろ?」
 この男の言う意味が計れない。
 自分は酷く情けない顔をしているのではないかとガイは思う。しかし、それを見つめる皇帝の顔は酷く優しかった。
「ガイラルディア。褒美とは言うが、俺は、お前が本当に欲しいものをくれてやることは出来ない。それが出来るのはルークだけだ。」
「陛下…。」
「だから、泣いたり喚いたり好きなだけ足掻いてろ。
 疲れ果ててへとへとになるまでやっとけよ。思い出から逃げ出すな、気が済むまで、浸ってろ。たまには、お茶汲みもしてもらうけどな。」
そんな事をしながらさ…。続けてピオニーは笑った。
「ルークが帰ってくるのを待ってりゃいい。その場所は俺が提供してやる。」

「…それが、ご褒美…ですか?」

 ガイは、滅多に見せる事のない表情で呟く。幼い子供のような顔。
声が震えた。
「俺はルークが帰ってくると信じてます。」
「当たり前だろう。お前が信じないで、誰が信じるんだ。」
 優しい抱擁は、柔らかな笑みと共に行われて。
「それでも、弱音を聞くくらいは、多忙な皇帝でも出来るんだぜ?」
 
ああもう、勝てないこの人には。さすがに、あの旦那のご主人様だ。

「………お茶入れますよ。」
「助かるね〜。」
 許容したと告げるように動きだすガイをピオニーは笑みを浮かべて見つめていた。
 カップを手渡すと、白い陶磁器を滑るピオニーの指。
綺麗に整えられた爪が一本だけ割れているのに気が付いたのは、やはり染みついた使用人魂というものなのか。
「陛下、爪が…切りましょう。」
 このままでは、怪我をするだろうと鋏を手にとり声を掛けたガイに、ピオニーは渋い顔をして指を睨んだ。
「褒美をくれてやったら、がっつくんで痕を残してやったんだ。…割れてたか。」


は…?なんとおっしゃいましたか、皇帝陛下?


 今までの真面目な話は、その一言でガイの脳裏から吹き飛んだ。
「どうした?」
 褐色の肌に乗る艶やかな爪。この指が旦那を煽り、首筋にからみついて赤い線を引いた。
「いえ…別に…。」
「おっかしな奴だなぁ。」
 唇に優美な笑みを乗せたピオニーは、その指先でゆるりとガイの首筋を撫でる。

 不遜な事だと思いつつも、止まらない想像はガイを心持ち前屈みにさせた。



〜fin



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