一夜のあやまち


 皇帝の承認を得る研究書類が溜まっていた。
明日帰還する予定のジェイドに、『私が帰るまでに』と念を押されていた以上、今夜それを得なければ地獄のお仕置きが待っている。
 そんな切羽詰まった状況で、ディストは皇帝の私室を訪れていた。

「だいたい、私が悪いんじゃないんですからね。」
 ぶつぶつと文句を並べ立てるディストの言い草にもそれなりの理はあった。本来空いていたはずの計画に、急に慰問の予定を入れたのは皇帝の方だったのだ。
 村全体を襲った病は未だに死人は出ていないものの、住民の不安感を慮った配慮という奴だった。けれど、それによって、ディストはこんな時間に動かなければならなくなったのだ。

「ピオニー、聞いているんですか?」
「ああ、すまん。聞いてる。」
 ぼんやりとした瞳が自分を見つめた。心ここにあらずな様子に、ディストの苛立ちは募る。この部屋を訪れてからずっとこんな調子。使用人(ガイ/汗)が気を効かせてコーヒーでも入れましょうと言ったくらいだ。
「嘘をつきなさい!こんな時間にわざわざ説明に来てあげているのに、なんていう態度なんですか貴方は!」
「だ〜からあやまってるだろ?」
 へらへらと交わす調子はいつもと同じだが、気怠い様子で瞼を閉じた。
「ここで、承認を得ないとジェイドに…。」
「ジェイド…?ああ、もう任務は終わっているから、そろそろこっちへ向かっているはずだ。」
 見当違いな返事はディストは尚も苛立ちを募らせた。

 ジェイドの事を考えていたんですか…?

 此処にいるのは、私なのに。そうやって、柔らかな笑みを浮かべて見せながら、私は視界にも入ってもいないんですか。

 考えるよりも、行動する方が早かった。
 ソファーに腰掛けている相手を、己の体重を掛けて引きずり降ろし床に組み敷く。自分の身に何が起こったのか理解出来ずに、大きく見開かれた瞳。潤んだ淡い水色が揺れる様は確かに綺麗だ。
 それでも、視線は自分を通り越していく気がして、ディストは顔を近付ける。
「…私を、見なさい…。」
 何故だか、泣きそうな気持ちになる。蒼い泉に映った自分の顔は歪んでいた。

「サフィ…。やめ…。」

 やっと、相手の意図を理解し、力無い手が微かに抵抗の意志を示す。ディストの袖口を掴んで、自分の上から降ろそうと引っ張った。
 それを無視して両手で首を抑え付け、酸素を求めて開いた唇を塞ぐ。想像以上に熱い口腔に意識を持っていかれた。洩れ聞こえる声も、その感情を加速させる。
 
 はっと、ディストは抑えていた手を放した。
 襟巻きをしたように、彼の首には自分の手の痕。抵抗していた腕は既に床に落ちていて、動かない。
「ピオニー…?」
 何度呼び掛けても、蒼穹の瞳を覆った瞼は上がらなかった。
「ピ、オ…。」
「何やってんだ、あんた……っ陛下!?」
 肩を揺すっていたディストの手を引き剥がし、背中に腕を回して抱き起こしながら呼び掛ける。しかし、皇帝の応えは無い。
 ディストの様子といい、ピオニーの状態といい尋常ではなかった。
 ガイは、噛みつくようにディストに問い掛けるが、鼻水涙を流して動きを止め、使い物にならない。
 冷静を保とうと努力していたガイも、焦りを抑えられなくなる。怒鳴りつけようと振り向いたガイの眼に、扉を開けたジェイドの姿が映った。

「どうしました。」

 冷淡なまでに落ち着きはらった彼の言葉が、今は頼もしかった。
「旦那…!陛下が…!」
 ガイの言葉に一瞬だけ眉を潜め、跪く。手袋を取り去ると首筋に手を当てた。
「酷い熱です。だから、慰問に行くのは危険だと忠告したのに。」
「…ね、つ…?」
 ガイも皇帝の額に手を伸ばす。手に伝わる熱量は、熱いと瞬時に判断出来るほどのものだった。そう言われてみると、身体も異常に熱い。
 驚き見つめるガイに注意を払うこともなく、ジェイドは手際よく治癒を施していく。慌てて、ガイはこれまでの様子等、言葉を添えた。
「戻られてから、こっちそんな素振りは少しも…。」
「相当の意地っ張りですからね。普通にしていて気取られるような人ではありませんよ。それにしても…。」
 ピオニーの目尻に溜まった涙を拭っていたジェイドが、ジロリと睨む先には、座り込んだままのディストの姿。
 ぐずぐずと鼻水を垂らしてこちらを見ていたが、鬼畜眼鏡の視線でビクリと身体を震わせた。やっと、己の状態を理解出来たらしい。
 あ〜あとガイは苦く笑う。
「…弱っている相手、それも陛下に狼藉を働くとは良い度胸ですね。」
 抑揚のない声が、かえって恐怖を引き立てる。ひぃぃいいいいいという力ない声が部屋に響いた。
「ごごごごごごごごごごご、ごめんなさいぃぃぃぃぃぃぃぃ。」
 いつもの五倍は、ごが多いなぁなどと、ガイは思う。
不気味なほどの笑みが死霊使いの顔に登ると、形良い唇が歪む。「ごめんで済めば、軍隊はいらないんですよ。」
 
 あまりの惨劇にガイは直視に耐えられずに、視線を逸らした。
いつもなら、止めに入ってくれる皇帝も自分の腕の中で眠っている。今夜ばかりは哀れな下僕に助けはこない。

『まぁ、自業自得だけどな。』
 ガイはふうと溜息を付いた。後で、手当くらいはしてやろうと心の中で呟きながら。


後日談
「お前があんな寂しがりやだとは思わなかったぞ。」
 お仕置きと病気(口移しでピオニーに貰った/笑)の両方で寝込んでいるディストの枕元で皇帝陛下はくくっと笑いながらそう言った。
「元気になったら、ゆっくりと遊んでやるよ。
 ま、その場合は、俺も黙って組み敷かれたりはしないがな。」
「…陛下、その件については、後でゆっくりとお話しましょう。(だいたい貴方は隙がありすぎで…。)」
「うおっ!?いたのか、ジェイド!!」
 結局一夜のあやまちは、一夜どころの話ではなく長く尾を引くこととなった。


〜fin



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