「陛下」という名の猫のお話


 先程からこれ見よがしに溜息だらけ。相手は、自分からの言葉を待っているとしか思えない。ジェイドは、食べかけのA定食から箸を上げてガイに顔を向けた。
「どうかしたんですか?」
 声に抑揚は無い。
 如何にも同情心の欠片もなく仕方なしのジェイドに、ガイは持ち上げていたスプーンを再びカレー皿の中にダイブさせ、ジェイドを見つめた。
 待ってましたとばかりに、口を開く。
「聞いてくれよ、旦那ぁ〜。」
「…。」
 聞く気がないというリアクションも、ガイは軽く無視をする。
 奇妙なところで恐いもの知らずなのが、自分と友人関係が持てる証拠なのかもしれないとジェイドは思った。
「実はうちの奴が、食事の後とかふっといなくなるんだよ。俺、何か嫌われるような事したのかなぁ。朝目覚めたらさ、隣で寝てたはずだったのにいなくなってたりで…心配で心配で…。」
「それは、それは。」 
 女性恐怖症で有名なこの同僚が、随分と進んだ話しをしているものだと思いながらも、痴話喧嘩に巻き込まれるのも本位ではない。
「この頃ずっと研究室に籠もりきりだったろ? ひとりぼっちで、寂しい思いをさせたのかと思うと、なんか、ホント。胸痛くて。なあ、旦那どう思う?」
 深い後悔と共に溜息をつくガイ。どうにも巻き込まれそうな雰囲気に、ジェイドは先手を打つことにする。
「それで、彼女とはよく話しをしたんですか? 私なんかに相談するよりそちらを優先すべきでしょう?」
 途端、ガイは真っ赤になって、テーブルを叩く勢いで立ち上がる。
「ば、何言ってるんだよ!? 飼ってる猫の話しだってば!!!」
 悲鳴を上げた同僚を、ジェイドも呆気にとられて眺めてしまった。


 このマンションは会社が借り上げて斡旋しているものだ。入居者は殆ど社員だと言って間違いではない。ジェイドもガイとは同じマンションで別の階。
 成り行きのまま、部屋へ連れてこられ、玄関の扉を開けると涼やかな音が響く。
 出迎えに来た猫に、ガイは頬を染め、満面の笑顔にかわった。金色のふさふさした尻尾の猫が蒼い首飾りについた鈴を鳴らして、ちょこんと玄関マットの上に座った。
「ただいま、陛下。寂しくなかったかぁ。」
 恐ろしい事に、ガイの声色はワントーン高く、鼻の下は伸びきっている。
 そして、前足の脇に両手を差し込んで抱き上げた。『陛下』と呼ばれた猫は、前足をガイの肩に行儀良く置くとその上に顎をのせて喉を鳴らす。
 彼の溺愛ぶりを感じさせる手入れの良さで金の長毛は絡む事こともなく艶々と輝き、健康状態の良好を伝える黒い鼻はしっとりと濡れていた。
「成程。これは、上等そうな猫ですねぇ。」
 眼鏡を押し上げる仕草をしながら見つめているジェイドに、猫は視線を向けた。
 大きな琥珀の瞳は、一般の猫よりも遥かに黒目の部分が大きい。じっと、見つめられると引き込まれる深い色合いだ。
 蕩けるような顔で猫に頬ずりをしていたガイは、ふいに跳びすさる。
「なんです? 触るくらいいいでしょう?」
「…なんか嫌だ。旦那の手つき。」
「失礼な人ですねぇ。」
 ジェイドは眼鏡を押し上げ溜息を付きながら猫を見つめると、笑うように鳴き声を上げた。


 晩ご飯を貰い(キャットフードではない、ガイの手作りだ)、毛づくろいをすませると、『陛下』は夜の散歩へ出掛けていく。ガイはジェイドを引っ張ってその後を追った。金色の猫は足取りも軽やかに、ベランダを飛び越えていく。
 …と『陛下』はその中の一室に降り立った。鳴き声に反応して窓が開く。
 顔を覗かせたのは、銀髪の青年。足元にいるだろう猫を見つけて、甘い顔に柔らかな笑みを浮かべた。
「ピオニー。」
 そう呼び掛け、青年は『陛下』を抱き上げた。金の毛が彼に擦り寄せられているのが見える。
「今日は遅かったんですね、どうしたんですか?」
 丁寧に話し掛ける声は、閉められた窓と共に聞こえなくなった。

「ああああああああ。」
 一部始終を物陰から覗いていたガイの悲壮な声が響く。まるで、間男と対面した亭主のようですとジェイドは思う。
 痴話喧嘩に巻き込まれたと思ったのは、あながち間違いではないだろう。
「な、な、なんだ。あの男は…。」
 出てきた台詞もあまりにもそれっぽくてジェイドの失笑を誘った。
「彼は営業部のフリングスですね。有能で社内でも人気があります。」
「そ、そうか…でも、ピオニーって…。」
「猫は、あちこちに餌場をつくって訪問するそうですよ。家ごとに違う名前がついていてもキチンと返事をすると聞いた事があります。暫くすると、また帰ってきますよ。」
 ガクリと肩を落とすガイに、他に掛ける言葉もなかったのでジェイドは一般論を述べてみる。勿論ジェイドは猫など飼った事もない。
「俺のこと、嫌いになった訳じゃないよな。」
「だから、習性ですってば。」
 なんだか、本当に女房を寝取られた亭主のような有様に、ジェイドは苦笑を隠しきれなかった。



「おや。」
 ジェイドは、自室の窓に金色の猫を見つけて声を漏らす。催促するように陛下は前足で窓硝子を何度も押した。
「開けて欲しいんですか?」
 ジェイドの問い掛けに、さも当然だと言うように琥珀の瞳でじっと見つめてくる。根負けしたのはジェイドの方だった。
 鍵を開け少し隙間を開けてやると、スルリと部屋へ入って来た。
『御苦労』と告げる如く、ふさふさした尻尾をジェイドの足に巻きつける。そうして、この部屋の中で一番温かな場所を見つけると腰を降ろした。
 居座る気満々だ。

 おやおや、私の家も加わりましたか。

 如何にして自分の家を探し出したのか、なかなかに賢い猫に敬意を表してジェイドは彼を追い出すのを止めた。
 ガイに妨害されて触れることの叶わなかった毛を撫でると、滑らかな手触りはなかなかのもの。ジェイドは心地よさを素直に認め、喉を撫でてやった。
 目を細めていた『陛下』がふと顔を上げる。ジェイドを見るとにやりと笑ったような気がした。契約成立…そんなところだろうか。
「では、ここでは貴方の事を『ウパラ』と呼ばせて頂きますよ?」
 小首を傾げた金の猫は、返事をするように小さく鳴いた。


〜fin



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