家族団欒編


 床に残っている足跡は、見慣れたものではなかったが、察しはつく。ベッドは空っぽ。介添えに残して置いた男も行方不明。それが現状だ。
 ジェイドは空になったベッドに背を預け、片膝を抱えた。人は失って者の価値を知る。自分はよく知っていたはずだとジェイドは思う。失った果てに付いた通り名は、過去の史実を伝えているではないか。
 二度と、大切なものを創りたくないと思っていたはずなのに。どうせ、生を得る時もそれを失う時も。人は唯ひとりだと言うのに。此処から消え去ってしまった温もりに、恐ろしい程執着している。

「あ〜!!また、グミしか食べてねぇ! 食事もしなきゃ駄目だって言っただろ!」

 部屋を覗いたルークはジェイドの横に手付かずの皿を見つけて怒鳴る。ジェイドは、少年に笑顔を向けた。
「滋養強壮は一緒ですから。」
「ちげーよ。食事は、食事。栄養は御飯から取るもんだって、ガイが…。」
 一瞬、ルークの表情が曇り、けれど直ぐに笑顔に変わる。
 随分と強くなったとジェイドは思う。ガイが傍らにいなければ、いつも頼りなげな表情をしていた少年だったのに。ルークは、自分を見つめるジェイドの鼻先に皿を突き出す。
「兎に角、喰えよ。ジェイドが好きな豆腐料理にしたんだからな。」
 皿に盛られた冷えた豆腐には、それを覆い隠すほどの鰹節と醤油がかかっている。男の料理の醍醐味を隠し味にした逸品だ。
「私はもう少し上品な盛りつけがいいのですがねぇ。」
 眼鏡を指で押し上げる仕草と共に溜息。ルークはむっとした顔のまま、ジェイドの横に座り込み、皿を顔から離さない。降参したように、ジェイドは手に取り、一欠片を口に運んだ。
「貴方は、ガイが裏切ったと思っていないのですか?」
「…怒ってるかって、聞いてくれよ。」
 ルークは、まだあどけなさも充分に残る顔立ちを歪めてみせる。酷くアンバランスな表情は、少年の心情そのものだろう。
「そうしたら、怒ってるって答えるのにさ。」
「そうですか…。」
 粘ついた口内に冷たい豆腐は心地良かった。続けて口に食事を運ぶジェイドをルークは笑う。
「俺、馬鹿だから状況が読めなかったりで、ガイが黙ってたの仕方ねぇかもしんない。けど、言って欲しかったと思う。一人で決断するなんて、ズリい。」
「信じている…と?」
「うん。昔さ、ガイに親友って呼べるのはどんな奴なんだって聞いた事があってさ、そしたら『騙されてもいい奴』って答えだった。騙されたって仕方ないって思える位、信じてる奴だって。そんな事で、手を離したくない相手なんだって。
 俺とガイは親友とはちょっと違うけど、あいつになら騙されてもいいんだ。」
 クスリとジェイドは笑う。
 ルークの告げる言葉も、ガイの話も、ジェイドにとっては絵空事に聞こえた。騙されて喜ぶ人間などいない。しかし、それを信じている人間にとって、現実であり真実だ。他人がとやかく言うべきものではない。

「…今、ピオニーは危険な状態かもしれません。」
 ジェイドの言葉に、ルークはえっと振り返る。
「確かに、あのままでは私達は共倒れでした。どうも、私らしくもなく彼を助けるべく手段を施す事を躊躇っていたようです。こればかりは、ガイに感謝しなければならないようですね。」
 綺麗に平らげた皿をルークに渡し、ジェイドは立ち上がる。
「ご馳走様でした。さて、マルクトへ向かいましょうか、ルーク。
 何処へ逃げても地の果てまで追うという言葉を彼等に思い知らせて差し上げますよ。」



 立ち上がろうとして、カーテンに縋り付く。ぐっと腕に力を込めると、それを支えている柱が弧の字に曲がる。男一人分の体重がかかってその程度とは、流石に丈夫なものだ。
 ピオニーは霞む意識でそう思う。身体がばらばらになりそうな慟哭がずっと続いていた。煩いほどに鳴っている心臓の音が、何とか意識を保ってくれている。行きたいのに、足が上手く動かない。
 さっきから聞こえる爆音。あの音がする場所に彼はいる。此処に来てから一度も感じた事のない音素は、ジェイドのもの。 
 けれど、縋り付いていたカーテンが、音を立てて外れる。回避も出来ず床に叩きつけられるだろう身体は、支えられた。
 背中から回された腕を握りしめ、それを伝い顔を見る。薄笑いを浮かべた男はまるでいままで其処にいたように、ピオニーを見つめた。
「苦しいですか? 今、楽にして差し上げますからね。」 
 にこ、と食えない笑みを浮かべる。
 扉の向こうから、兵士のうめき声が聞こえるところを見ると、強行突入してきた事に間違いはないだろう。ルークのガイを呼ぶ悲痛な声が聞こえるのは気のせいなんだろうか。
「お礼を、ガイとヴァンにしておきました。貴方も私のものなのですから、勝手に攫われたりしないで下さいね。」
「お前…そんなに俺の事好き…か?」
 額に滲む汗とは、対象的にピオニーも笑った。
「ええ、貴方が生きていてくれれば、何を引き換えにしてもいいなどど思えてしまうんですよ。素晴らしいでしょう?」
「自画自賛すんな、キモイ…。」
 ギュッと、ジェイドの服を握り締めていた手から力が緩む。ピオニーの手を包み、ジェイドはああと言葉を続けた。
「でも、助手の洟垂れがミスをするかも知れませんね、これはまぁ、不可抗力という事で。」
「酷でぇんじゃ…ねえか、それ。」
 クスリと笑い、ピオニーはジェイドの肩に額を押し付ける。縋りつき目を閉じる。
「死にたく…ない…な。」
「死なせません、ピオニー。」
「…此処で、陛下って言ったら怨んで…やるとこだ…。」
 最後に笑って、ピオニーの身体から力が抜けた。


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