家族団欒編


 ガイは、目覚める様子の無いピオニーを見つめて溜息をついた。
窓の外には小雨が霧のように漂い初めている。街を歩いていた人達が雨宿りに逃げ込むと、ただ景色だけが写る。宿に向かう人影はひとつ。
 帰りを待っている人物はふたり連れだ。
「ルーク…。」
 ジェイドと共に買い出しに出掛けた想い人の名を口にして、唇を引き結んだ。

『なぁ、ルーク。』
 戸口に向かう少年に声を掛けると、笑顔で振り返る。
『何?ガイ。』
『あのな、お前は俺を信じてくれるか?』
 躊躇いがちに口にした言葉に、ルークは目を丸々と見開いた。
吃驚すると、暫くそのままが少年の癖だ。呆けたような口が動き出した時、ルークは笑っていた。
『ガイはいつだって俺の事信じてくれた。だからって訳じゃないけど、俺もガイを信じてる。』
 ガイの回想を留める為に、木が軋む嫌な音と共に、窓が開いた。

「…ガイラルディア様。」

 その体格からは考えられないほど身軽な動作で、床に降り立ったヴァンは、特別に驚いた様子のないガイにその太い眉を寄せる。
「そろそろ来るだろうと思っていた。が、どうして、お前が?ヴァンデスデルカ。」
「少将に泣きつかれました。皇帝を助けてくれ…と。」
 そうか。ガイは困ったように笑い、ピオニーを見る。
 自分達も手を出せずにいたが、帝国の方でも何度かそれを試みていたらしい。つまり、ジェイドを説得出来たのはルークだけという事か。
 衰弱し早急な処置が必要であることはて、ヴァンの目にも明らかで、躊躇い無くベッドの横に歩み寄る。しかし、彼の予想に反しガイはピオニーの手を握ったまま動かない。剣を抜く様子も、罵倒する気配すらなかった。
 抱き上げるべく膝を折り、同じ体勢のガイを振り返る。
「見逃していただける…と?ガイラルディア様。」
「彼には治療が必要だ。それに、今旦那の側に置いておくべきではないと思う。だからと言ってお前を信用しているわけじゃない、俺も付いていく。」
「あの弟君が、納得しますかな?
 自分を裏切って、貴方が私の方に組みしたと考えるのでは?」
「俺はルークを信じてる。」
 ガイの言葉に、ヴァンはにやりと笑うと皇帝を両腕に抱き込んだ。手を握ったままガイも立ち上がる。
「それは?」
「精神安定剤…とジェイドが言ってた。旦那が戻ってきたら、俺やお前が束になっても勝てないぞ。急ごう。」



 ふっと夢を見る瞬間がある。
 漂っていた意識が、何かの切欠でひとつに纏まった状態。たいていは、恐怖だ。恐ろしいものに追われる怖い夢。背景はいつだって赤かった。
 逃げても、逃げても追撃が収まることはなく。どんどん早くなる追手と違って、己の足は、鉛をつけられた様に重い。
 大きな手が肩を掴み、浮いた足は容易に相手に引き寄せられる。悲鳴を上げて、その声で目が覚める。なんだかわからないけど、怖い。

 何度こうして目覚めたんだろう。

 その度に、ジェイドが自分を心配そうに覗き込んでいた。大丈夫、平気だと告げたくて、けれど体力はそれを許さなくて、再び吸い込まれるように眠りにつく。
 そんな事の繰り返しだ。
 目を覚ます度に、青ざめていくジェイドを見る度に悲しくなる。今も手を握ってくれているんだろ。そう思い、きゅっと握り返した感覚が、違う。

「…ジェ…イド…?」

 視界に入ったには長い髪と綺麗な貌。記憶に薄い女の子が、覗き込んでいた。
思わず起こそうとした身体を彼女が止める。
「まだ、起きるのは無理だわ。必要ぎりぎりまで体内音素を使って、治癒していたようだからまだ、回復していないのよ。」
 硬質な言い方。けれど、柔らかな表情が本気で心配しているのだとわかる。
「こ、こは? ジェイドは…?」
 ピオニーの問い掛けには、困った様に小首を傾げた。そして、反対側に貌を向ける。
「兄さん、ガイ。彼が目を覚ましたわ。」

 彼女の言葉に、ピオニーも視線だけ軌跡を追った。
ぼんやりとして焦点が合わない。何度も瞬きをして、それは蒼穹の中に像をつくる。二人の男。見知った顔、確か…そうだ。

 でも、ああ、ジェイドじゃない。

 握っていた指から抜けた力。あ、と少女が振り返った。長い髪が揺れるのは、ジェイドを思い出させる。此処は何処なんだろう、どうしてジェイドはいないんだ?
 頭に浮かぶ疑問を遮るように、ジェイドの声がした。
 
『何も考えなくていいんですよ。』
 ジェイドはそう繰り返した。ずっと、側にいますから。貴方が、貴方でいる限り、私は此処にいますから…。
 考えなくていい…何を? 俺は何を考えてたんだ? お前が側にいないから、俺また考えなきゃいけない。

「此処は、マルクトなんだ。ティアが治癒をしてくれてる。彼女は、第七音律師で、譜歌の名手だ。」
 ガイは躊躇いがちに声を掛けた。ぼおっとしたままのピオニーの顔を覗き込むが、視線は動かない。つまり、言葉に反応が無い。
「…悪い、こんな事になってて。」
 緊急事態だったとは、思う。思うが、本人の意思とは無関係に此処へ連れてきてしまったのだ、ひょっとしたらピオニーは怒っているのだろうか。ジェイドの側を離れたくなかったのかもしれない。生命の危機よりも、そういう感情が優先することだって、珍しい事じゃない。
 けれど、見ていられなかったのだ。たとえ、余計なお世話だったとしても。あのままでは、二人とも衰弱していくだけに思えた。
 弱り切っていく『死霊使い』など、笑いものにしかならないではないか…。
 
「ご気分はいかがですか?」
 いらえの無いピオニーに、ガイの後ろからヴァンが、そう告げる。
 同じ反応を返すものだと思っていたガイは、ゆっくりとピオニーが視線を上げたのを見て驚いた。その視界にガイは入ってはいないのがわかる。瞳は真っ直ぐに、ヴァンを見つめ、服を掴んだ。
 
「ヴァンデスデルカ…。」

 やはり、怒っているのかと、そう思ったガイに予想だにしなかった言葉が続く。
 
「無事だったのか? 火はどうなった?」

「あの…陛下…、火って…。」
 不可解な台詞は、ガイとティアを呆気にとらせた。しかし、ヴァンは、はっと息を飲んだ。その様子も奇妙で、ガイは再度声を掛ける。今度は不思議そうな貌をして小首を傾げた。
 仕草も何処か、幼い。
「火事だ、知らないのか? それに、陛下は父上の呼び名だ…。」
 ガイはゴクリと口腔に溜まった唾を飲み込む。それでも、喉は乾ききった様子だった。
 まさか…これは?
「お…れの事はわかりますか?」
「え……ガ…イ?…っ…!」
 ひっと息を飲む音がしたと思うと、今まで緩やかにしか動かなかったピオニーの腕が額を抑えた。金の糸をぐしゃりと両手が潰していく。
「ガイラルディア様、いけません!メシュテアリカ、譜歌を。」
「は、はい。」
 全身を震わせ、今にも叫びだしそうなピオニーの身体を腕の中に抱き込んで、ヴァンはガイの姿を視界から外す。程なく、ティアの譜歌が彼に眠りを与え、くたりと正体をなくした。
「……ヴァンデスデルカ…これは、いったい。」
「体内音素の再構築が、彼の記憶を甦らせつつあるようです。
 しかし、これは諸刃の刃…過去の記憶が今の自己を崩壊させれば、体内音素の剥離を生じさせるでしょう。
 成程、死霊使い殿が一刻も彼から離れなかった理由は、これですな。ガイラルディア様。」
「…ああ。」
 ガイは、はぁと溜息をつきながら微苦笑した。
「今度旦那と会ったら、確実に殺されそうだな。ヴァンデスデルカ。」


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