家族団欒編


 ふと、アスランはピオニーの後ろに目を向けた。
「何やってるんです!帰りましょう!」
 波に玩ばれながらも辿り着いた下僕は、ピオニーの腕をひっつかみ陸地に向けて歩きはじめる。有無を言わさぬ力にピオニーは驚いた表情でそれに従った。
「ディス……?」
「早く!此処から離れるんです!」
 顔には痣。眼鏡は無惨に割れていた。その様子に、ピオニーは事態を察しジェイドの姿を探す。
 集約した音素の感覚に背筋が凍った。
 ピオニーがジェイドの位置を肉眼で特定した時には、足元に譜陣が出完成されていた。ディストの腕を振り払い、ピオニーは元居た場所へ戻る。
 充分に海水を吸い込んだ服が重く、思うように走れず、間に合わない。
 そう感じたピオニーはジェイドの方へ向き直る。大きく両手を広げて立ちふさがった。
「駄目だ!こいつらは、俺を連れ戻しにきたわけじゃない!」
「馬鹿なっ、ピオニー、退きなさい!」
 発動されてしまった譜術。遮るもののない場所にふいに現れた相手を、マーキングで避けるすべなど、流石のジェイドも持ち合わせていない。その身をもって、譜術を阻みピオニーは波間に膝をついた。
「…っ、陛下!!」
 駆け寄ったアスランの腕が背中から彼を支えようと伸ばされ、ピオニーはそれを払いのける。
「行け…。」
 深く身体を屈したまま、呟く。
「しかしっ…、陛下「……命令は聞くん…だろ…。」」
 行け…。もう一度、ピオニーが呟いたのとジェイドがアスランの目前に立ったのはほぼ同時。
 しかし、ジェイドの緋石はアスランなど写してはいなかった。ゆっくりと伸ばされた腕は、今にも波間に倒れ込みそうな相手の腕を掴む。
「う…っ…。」
 無理に持ち上げられ、上がった呻き声も聞き取らず、ジェイドは自分の胸元に相手を引き寄せ、抱き締めた。だらりと抵抗なく二本の腕が垂れ下がる。
「俺を…殺す気かよ…ジェ…イド…。」
 荒い呼吸の間に、紡がれる言葉は途切れ々で苦笑と言ってもいい表情を見せる。けれど、相手の応えをまたずに、金の睫毛は蒼穹を覆った。
「……貴方が…。」
 血塗れの頬に、ジェイドの指が這わされる。譜術をまともに喰らった衣服はボロボロで、裂傷はそれを鮮紅色に染め初め、ジェイドの服も濡れた光沢を見せ始める。断続的に堕ちていく赤い粒は、波間に消えた。
 長い髪に隠されたジェイドの表情は見えない。しかし、確かに声は震えていた。
「貴方を…誰にも…。」
 己を傷つけた腕に閉じこめられながら、ピオニーは意識を手放していた。


 もう一週間だ。
苛立ちと共に、ルークは唇を噛んだ。
 血塗れのピオニーを連れて、ジェイドが宿に帰ってきてから経った日数。
何事かと部屋へ入ろうとしたガイに、ジェイドは容赦なく普術をぶつけた。軽い怪我で済んだものの、それ以来ジェイドは扉に鍵を掛けて誰も入れないし、自分が出る事もない。扉越しに聞く答えには『大丈夫』という言葉しか返らない。
 そして、一週間だ。
 共に帰ってきたボロボロの下僕は、暫くの間は何も話そうとしなかったが、何度もガイとルークに問い詰められ口を開いた。

 ピオニーに頼まれて、マルクト軍を呼んだ事。そこにジェイドが現れ、彼等を殲滅しようと放った普術をピオニーが受けた事。

「な、んで?一体どういう事だよ。」
 困惑した表情はそのままで、ルークはガイを見つめる。手袋の上からギュッと指を噛んだガイは溜息と共にそれを放した。
「陛下は…陛下だったって事か…。」
 ぼそりと呟いたガイの言葉が理解出来ず、首を傾げたルークの代わりに、ディストが声を上げた。
「あれが…あの男が、行方不明だったピオニー殿下だったと云うんですか!?」
「はぁ!?」
 遅れて上がったルークの叫びに、ガイは首を縦に振った。
「…旦那は、陛下を誰にも渡したくないんだ…だから。」
「部屋に閉じこめて、俺達を排除してるってのか!?そんなの変だ、おかしいだろう!?」
「…陛下はずっと、旦那がおかしいって言ってた。」
「でも…、皇帝だったからって、ジェイドと離れなきゃいけないなんて決まりがある訳じゃ「あの馬鹿が納得しないでしょう?」」
 ルークの声をディストが遮る。
「いつだったか、どうして皇帝の身代わりにならないのかと聞いたら、国を裏切りたくないなんて、奇麗事を言ってましたからね。本物だと知った以上、有りもしない責任とやらを感じるはずです。
 マルクト軍に連絡をとった事で、自分との別離を覚悟したとジェイドは思ったのかもしれません。」
 ディストは、ボロボロの眼鏡を取り去って、ガイとルークを見上げた。
「…ですが、自分の私欲の為にあの男を見殺しにするような、ジェイドはそんな人間ではありません。」
「それは、俺だって、世間で言われているほどジェイドの性格が悪くて、残忍だなんて思っちゃいないさ…けど。」
「どうでも…いいじゃねえか、そんな事。」
 ディストに話しを遮られ、黙って聞いていたルークがぼそりと呟く。
「このままでいいなんて、俺には絶対思えねぇ。」
 そのまま、ルークは剣を手に立ち上がった。踵を返して扉へ向かうと、蝶番に手を伸ばす。半分、扉を開いてガイを振り返り、懐の財布をガイに向かって放り投げた。
「宿屋の扉って幾らぐらいするもんなの?」
「急にそんな事言われたって…まさか、ルーク!?」
「足りなかったら、後でアッシュに土下座でもなんでもして借りる。」
 そう言い捨てて、走り出した。
「ルーク!」
 慌てて後を追ったガイとディストに、秘奥義を持ってたたき壊された隣の扉の破片が降り注ぐ。ガイは咄嗟に廊下に伏せ、ディストはそれをまともに喰らって、動かなくなった。

「やれやれ、乱暴ですね。」

 ジェイドの声が静かに響く。 
 結界を張っていたのであろう片手をゆっくりと降ろす相手は、元々色白ではあるが唇にすら色を見つけるのが難しい。緋色の瞳だけが辛うじて色を留めている。
 ルークを一瞥した後にベッドに横たわる人物に視線を反らした。
 立ち尽くすルークの斜め後ろから、その様子を覗きガイは息を飲む。
一瞬、ベッドの中にいる人間が息をしているように見えなかったのだ。呼吸が余りにも浅い。胸元に撒かれている布は未だ乾ききらない血を滲ませている。

「陛下に辛うじて息があるのは、第七音律師だからで、とっくに死んでてもおかしく無いんだろ…。」
「そうですね。私には、第七音素を感じる事は出来ませんが、貴方にならわかるのでしょうね。」
 諦めきったようなジェイドの表情に、ルークはいっそう顔を顰め、ガイは何かに気付いたように目を見開き、同じく開きそうになった唇を噛み締めた。
 ジェイドの手は、シーツの上に置かれたピオニーの手を握っている。
「このままじゃ、陛下は本当に死んじまうし…ジェイドだって死人みてえな顔して…なんでこんな事してんだよ!」


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