単身赴任編 「食事も召し上がっていらっしゃらないとは?」 ヴァンはテーブルの上に設えられた種類豊富な料理を眺めてから、出窓の上に膝を抱えて座り込んでいるピオニーに目を向ける。 「好き嫌いがおありでしたかな?」 「ああ、ぶうさぎの肉は嫌いだよ。」 それだけ答えると、ぷいと窓に視線を戻した。 「そろそろ…ですかな。」 マルクトからの迎えが来ると言い含み嗤いを伴った男に、ピオニーは力一杯嫌な貌をしてみせる。硝子に貌が写ったのだろう男の低い嗤いが部屋に満ちた。 誰の真似だか…嫌味な奴だ。こいつが部屋を出ていったら、絶対に脱出法を探してやる…そう思っていると、ヴァンの腕がふいにピオニーの肩を掴んだ。 「そうそう、頼まれた事をひとつ忘れていました。」 有無を言わさず、テーブルの横にピオニーを連れて来ると、その上にあった料理を力任せに薙ぎ払った。誰の手もつけられていないそれらは派手な音共に全て床にぶちまけられる。 「な…。」 貌を顰め自分を見ているピオニーを逃がさないよう腕を掴み、何も置かれていない机上に洋紙を広げる。 その、公式な場で多用される言語と、綴られている内容に気付いたピオニーが顔色を変えた。要約すれば、皇帝の任を受けるという誓約書。捕らえた時の為に予め渡してあったに違いない。 目の前に羽根ペンとインクを並べられ、強制的に席につかされる。 背後から体重を掛けられると身動きが取れない。片手は捕まれ背中に回され、もう片方の手にペンを握らされる。藻掻いても、ヴァンの力には太刀打ち出来なかった。 「サインを頂けますか?皇帝陛下。」 「…。」 「大人しく書かれた方が身のためですよ?」 腰の剣を抜き、その首筋に当てる。刃物の感触は本能的に震えを起こさせるが、ピオニーは背中越しに相手を睨みつけた。 「……殺れよ、お前の野望も溝の中だ。」 「そんな勿体ない事は、出来ませんな。…では、方法を変えましょう。」 木の割れる乾いた音と共に、剣はテーブルの上に突き立てられていた。途端、掴まえられた左手親指は、その刃に向けられる。 「何する…!」 「古の決め事には、血判というものを使用するのをご存じですか?」 『血判』が何を意味するのか理解しなくても、逃げようとするピオニーの指の腹を、刃に押し当てる。触れて出来た裂傷から滲みだした血はそのまま紙に押しつけられた。 「痛…嫌だ!っ…!」 背中に止められていた腕を引きヴァンの腹に肘鉄を入れる。僅かに怯んだ相手の手から抜け出し、洋紙を掴んだ。 ぐじゃりと洋紙はピオニーの血を模様にして手の中で潰れる。けれど、反撃も其処まで。再びねじ上げられた腕の痛みを堪えきれず、それはヴァンの腕に戻った。 「手荒な真似をして申し訳ありません。怪我の手当と部屋の片付けをするよう命じておきますゆえ。」 洋紙を懐に仕舞い、余裕の笑みを浮かべるヴァンを睨み付け、ピオニーは部屋の扉が閉じるのを床に座り込んだまま見送るしかなかった。 ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな。 何度も心の中で繰り返して、ピオニーは血を滲ませる指を握り込んだ。疼く痛みは、ムカツク気分をたっぷり込めた心臓の動きと同じ。 誰が黙ってこのまま言いなりになるか。連れ戻されてたまるもんか、俺は絶対ジェイドのところへ帰ってやる。 ピオニーは、その勢いのまま置いてある椅子を持ち上げると窓に向かって投げつけた。派手な音を立てて、窓は割れ椅子はそのまま地に落ちる。 それを三回繰り返し、大きく広がった窓枠に手を置くと残った硝子の欠片が手を傷つけた。ここから飛び降りてもただでもすまない事もわかる。けれど、後で自分で治療すりゃいいと覚悟を決めた。 まさに飛び出そうとした身体は、後ろから伸びてきた手に引き戻された。 「何をやってるんですか!?ディストさん。」 「な、なんでわかるんですか!?完璧な変装だとジェイドが…。」 「…。」 その答えを告げるのが、余りにも不憫でノエルは喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。ありきたりな茶色のお買物袋に目と口の穴を開け、それを頭から被ったディストが、整備中のアルビオーレを強襲したのは先程。 手にしたスタンガンは中々の威力で抵抗したギンジは気絶中。ノエルを腕に抱え首にスタンガンを押し当てて機内に立てこもっている。 「落ち着いて下さい。ディストさん、どうしてこんな事をすんですか?」 聡明な少女は服装についての追求を諦め、そう問い掛ける。 「緊急の用で、ダアトに赴きたいものですから。」 コックピットを点検していたジェイドがそう答えた。 「ダアト…ですか?」 その答えに驚いた貌したノエルに、ジェイドは優雅な笑みその貌に浮かべて見せた。 「ええ、マルクトの装甲鑑を相手にすることになるかもしれませんので、これを元の姿でお返し出来ると言って差し上げられないのが、なんとも心苦しいので、強奪の形をとらせて頂きました。」 「お仕事ですか?…その、死霊使いとして…。」 「いいえ。」 にっこりと笑いジェイドは首を横に振った。 「ディスト、お嬢さんとその青年を降ろして差し上げなさい。我々と運命を共にする必要はありません。」 「貴方と運命を共にするのは望むところですが、あの男と一緒なのは嫌ですね。」 ぼそりと呟くディストに、え?とノエルが小首を傾げた。 窓枠の血糊に、ヴァンはその二股に分かれた眉毛を歪めた。 悪役気取りで(実際結構な悪役だとは思うのだが)虐めすぎたか…と少々反省はしてみる。どうも、状況に酔いやすい性格だとヴァンは自覚した。 その上、舐めていたのかもしれない。皇帝陛下の優美な外側は、中身と全く一致していないようだ。 「どうすんの?ヴァン。」 部屋の惨状を告げに来たシンクの声色は面白がっていて、手伝う気はないらしい。 あくまで私事。騎士団を動かせるわけもないし、彼の姿をトリトハイムにでも見られれば大騒ぎになってしまうだろう。 「譜陣での移動は彼には困難でしょうし、遠くに行けるわけがありません。探しましょう。」 リグレットの声にシンクが笑う。「トリトハイム達になんて言うのさ、あんた仕事中だろ?」 「…生理痛で寝込んでいるとでも言っておいて。」 「んな事言えるか!!!!」 罵倒を浴びながら部屋を出ていく二人を見送って、咳をひとつ、シンクは部屋の壁を叩いた。大きく揺らいだ本棚はくるりと回転する。 「かくれんぼみたいで面白かったね!」 笑顔のフローリアンの後ろから背骨をさすりながらピオニーが出てくる。 「折れるかと思った…。」 「匿ってやったんだから、文句言うなよ。ま、大人には狭かったかな?」 にまりと笑うシンクに苦笑いを返すが、くの字に折れた身体はなかなか元に戻らない。腰をとんとんと叩きながら屈伸運動を続ける。 「ピオニー、もっと遊ぼう。」 「遊んでもいいが、ヴァンに見つかったらまた取り上げられてお前とは二度と遊べない。」 どうする?にやりと笑うシンクにフローリアンはムウと頬を膨らませた。 content/ next |