お見合い編 水音に囲まれた、グランコクマの後宮。 中心に設えられたベッドの上には、眠っているピオニー。銀髪の将校は全身をじっくりと見つめてから、その手をとった。 その気配にピオニーが目覚め、自分の手を握られていることに気づくと跳ね起きる。 「お前…!?」 引っ込めようとした手を、しかし銀髪の将校は握ったまま離さなかった。 「アスラン・フリングスとお呼び下さい。そう申し上げました。」 そう告げるとアスランはその手に口付けを落とした。 皮膚を叩く、かなり激しい音が響き、青年は自分の手を取り戻す事に成功する。 「俺を皇帝に仕立て上げて、どうするつもりだ!」 「これは、不思議な事をおっしゃいます。」 アスランは男に弾かれて赤くなった手の甲を一瞥してから、青年を見つめて微笑んだ。 「貴方は、ピオニー様ですよ。」 「…確かに名前は一緒だよ。少しばかり容姿が似てるのかもしれない。けど、場末の酒場で働いているような人間が、皇帝なわけないだろう!」 「少しばかり…でもありません。」 淡い金髪も、蒼天の瞳も、そして顔立ちも完璧です。アスランは笑顔を絶やすことなくそう告げる。 「象徴として、貴方ほど相応しい方はいらっしゃらないでしょうし、何にせよ。帝位継承の儀式を終えてしまえば、貴方が皇帝です。」 言葉の意味を解して、ピオニーは表情を強ばらせる。それは、『皇帝』という名の傀儡として、一生此処に軟禁されるという事だ。 虫も殺さぬような温厚な笑顔の下から見え隠れする、背筋が凍るような奸計。それは現マルクト帝国を支えている軍部の意思でもあるのだろう。 逃げられないのだという確信は、絶望に近かった。 ふいに、森で別れた男の顔が浮かぶ。 目の前の男と同じように、笑みという仮面を被ってはいたが彼からは嫌悪は感じなかった。タルタロスの甲板からだって、あの男が視界に入っていなければ、きっと飛び降りたりはしなかったはずだ。 アスランの言葉が、ピオニーの思考を妨げる。 「私達の元にいて下さるのなら、今までの暮らしからは、考えられないような贅沢も手に入ります。それが、貴方に相応しいと思います。」 「此処で飼われるのが俺に相応しいというつもりか…?」 憔悴しているようにも見える表情の中にある瞳は、揺らぐ事のない拒絶の意思を写しだしていた。『馬鹿にするな』と告げる強さに、一瞬アスランは目を奪われる。 「申し訳ありません、陛下。貴方には場末の酒場より、此処グランコクマの宮殿が相応しいとそう申し上げたかっただけですので。」 そう告げると一礼し、アスランは退室する。それと同時に部屋を照らしていた明かりも消えた。 暗闇の中に残されたピオニーは緩慢な動作で立ち上がると、月明かりが照らす窓辺に寄って、床にぺたりと座り込む。 譜術で構築された水柱がまるで檻のように宮殿を囲んでいるのが見えた。逃げられないと思う気持ちに相反して、ただ何の理由も無く、逢いたいと心に告げた。 「こんなに警備が厳重なのにどうするつもりだよ。」 グランコクマの宮殿前。橋のたもとに立っていたジェイドに、横腹を抑えたルークが走り寄ってきた。 「おや、あなた方も酔狂ですね。お付き合いくださるんですか?」 「何か、マルクト軍の奴らに腹立ったし、ジェイドが気にする人間ってのにも興味があるし…。」 「ありがとうございます。では、お手伝いいただけるんですね。」 にっこり嗤ったジェイドに、一瞬嫌な予感がしたガイがルークの腕を引っ張るよりも早く、その詠唱は完成していた。 「タービュランス!」 風の譜術は、ルークの身体を巻き込むと、監視兵が巡回する塀の内側に放り込む。間髪入れずに上がる三つの声。 「侵入者だ!!!」 「旦那ぁああああ!!!!!」 「こんの、鬼畜眼鏡!!!!」 塀を挟んで、内と外にわらわらと兵士が寄ってくる。ジェイドは慌てず騒がず、ガイを指さしてこう告げる。 「此処にも仲間がいるようです!」 声にならない抗議の声を上げて、ガイとルークが走り去るのを眺めて、ジェイドはくつりと嗤った。 「好奇心は猫を殺すと言いますからね。」 ジェイドは眼鏡を押し上げ、咎めるもののいなくなった正門を堂々とくぐり抜けて宮殿に入り込む。 「…さて、マルクトが隠した宝石を探しに行きましょうか…。」 窓から漏れる月光に照らされて、金の髪はなおさらにその色を淡くしていた。 陰影に縁取られ憂いを帯びた端正な横顔にジェイドは言葉を失う。 微かな風にカーテンが揺れ、その不自然な状況に、床に座り込んで外を眺めていた男の視線がゆっくりと反らされる。 そうして、佇む人物の姿に蒼天の瞳を見開いた。 「お前…?」 深紅の纏を背に闇の中でも写る亜麻色の髪。眼鏡の奥から緋色の瞳が自分を見つめている事にピオニーは心底驚いた。 エンゲーブで出会った男。 ピオニーは呼び掛けようとして、名前すらも知らないと気付く。 「どうして…此処に…?。」 「忘れものを届けに。」 ジェイドは芝居がかってみえるほど恭しく一礼をすると跪き、ピオニーの手を取り髪飾りをのせてやる。それを見やって、驚愕に目を見開いたままジェイドを見つめ返した。 けれど、直ぐに満面の笑みを浮かべた。 「わざわざ、すまない。大変だったろう?。」 そんな問いかけに、ジェイドの方が戸惑うように作り笑いを崩した。 「ああ、でも、俺は虜の身だ。お前に礼を返すすべもないな。」 眉を潜めたピオニーに、ジェイドはにまりと嗤ってみせた。 「いいえ。」 ジェイドの言葉に、ピオニーは首を傾げた。 「貴重な宝石を頂きに参りました。」 「宝石…?あ、これ…。」 掌の髪飾りを再度ジェイドに差し出そうとして、手で制される。 「貴方を…。」 え?と吐息のような声が漏れた。 ピオニーの両手を取って立ち上がらせる。 「どうか、この私に盗まれてやってください。」 「…‥俺!?」 そう叫んだ口のまま、驚きに声も出ないピオニーに、ジェイドはくつりと嗤った。 content/ next |