約束


 幼い子供がするように、目を擦るとジェイドが起きているのが見える。一体いつ眠っているのだろうかと疑問を感じながら、ピオニーも身体を起こした。
 そして、気付く。
「あ、俺の服。」
 見慣れた服ではなく、ピオニーの少しよれた上着とジーンズを着たジェイド。目が合うとにこりと笑う。
「急にこちらへ呼び出されたので、着替えが少ないんですよ。お借りしました。」
 帽子を被ると、目線まで降ろす。「似合いますか?」
「…俺よりお上品に似合うからムカつくんだろうが。」
 むとしたピオニーを一瞥し、ジェイドはポケットから取り出したものを彼に放り投げた。慌てて受け取るとチロルチョコレート。
「お礼にこれ差し上げます。」
 にっこりと笑う、ジェイド。
「だから、大人しくしていて下さいね。」
「今日…バレンタインだよな?」
 キモイと今すぐにでも言いそうなピオニーに向って、ジェイドはその唇に指を押し当てた。
「勿論です。私も愛情が篭ってますので、心して食べて下さいね。」
 そう告げられ、この男の目の前で食べる度胸などピオニーにはない。引き攣った笑顔で礼を告げると早々にズボンのポケットに仕舞い込んだ。
「出掛けるのか?」
「ええ、開演準備時間までには戻りますので、出歩かないで下さいね。」
「え!?俺の飯は…!?」
「ルームサービスをとりなさい。料金の内に入ってますよ。」
 机の上を示され、取りに行っている間にジェイドの姿は消えていた。仕方なく、分厚いメニューを眺めてはみるが要領を得ない。書いてはある。日本語の読み方も添えてある。けれど、それ自体が何であるのか…がわからない。

「あ〜?Sainte-Maure de Touraine?何語だ、英語か?」(フランス語です。)
 そうして、ピオニーは恨めしい視線を扉へ向けた。けれど、それでどうなる訳でもない。
 ファイルを顔に被ったままソファーに仰向けになる。置き捨てられたような感覚が気持ちを落ち着かなくさせた。手探りで床に落とした毛布を拾い上げ、もう一度寝ようと試みる。
 昨日は此処で寝た。勿論、象が寝ても遜色ないような巨大なベッドもあったが、異様に広い部屋と法外な大きさのベッドはどうにも馴れずに、ピオニーはジェイドが仕事をしている横のソファーに枕と共に陣取った。
 苦笑したジェイドも、わかっていたのか呆れながらも話し相手になってくれる。
 あれこれと話し掛けるピオニーの何度目かの質問に『前の職場はNYでした。』とジェイドは答えた。
「だろうなぁ。俺なんかのボディガードしてる風には見えねぇからな。」 
「クライアントには俳優を職となさる方もいますよ。」
 きっと、聞いただけで目を剥くような名前が出るのだろうとピオニーは敢えて聞くことはしない。
 高層ビルと視線を合わせた、今まで見た事もない夜景の中でジェイドは余りにも違和感が無い。まるで、芝居の一幕を見せられているようで、現実味すら薄い。
「ホント、映画みたいだ。…あんた。」
 枕を両腕で抱きしめて、ピオニーはとろりと目を閉じた。睡魔が急に瞼を重くする。細めた視線の中で、相手が笑みを浮かべるのがわかった。
「そうですか? 貴方こそ、誰よりも俳優でしたよ。」
 ジェイドの声が余りにも優しく聞こえたものだから、俺は弱音を吐く気になった。ぼそぼそと呟いた言葉を、しかしジェイドが聞き咎める事はなかった。
「それは、貴方が心配することではありませんよ、ピオニー。」
「ん…。」 
「いらして下さい。私の上司が歓迎します。」
「…お前は…?」
 クスリとジェイドは笑った。「是非、と約束しましょう。」



「あ、ピオニー。今日は随分と早いです…え?ジェイドさん?」
 先日と違い、今度はダンボール一杯のチョコを運んでいたアスランが、目を見開く。舞台裏には、まだ活気はない。公演開始にはまだ随分と時間があるせいだ。スタッフの姿も疎らで、ジェイドは邪魔になることなく、アスランと立ち話をすることが出来た。
「すみません、その服。ピオニーのものと…「ええ、彼のですよ。」」
「は、え、その…?」
「ちょっと、お伺いしたい事がありまして。」
 困惑してるアスランを軽く往なして、ジェイドは質問を続けた。
「ピオニーに来ている手紙についてもう一度伺いたくて。」
 アスランは少しだけ首を傾げてから渡していますがと答える。
「全て渡している訳ではないのでしょう?見せられないものや、不都合なものは処分しているのではないですか?」
 質問を重ねると、アスランはああ、と少し顔を曇らせた。
「嫌がらせの類でもそのまま渡していますよ。全部目を通したいというのがピオニーの指示ですから、私が処分しているのは、DMの類や、それこそ剃刀が入っているようなものだけで。先に封を開けるのは、書かれている芝居の感想をスタッフと参考にする目的もあるものですから。…って、何かの参考になってますか?」
 ええ。ジェイドはにっこりと微笑んだ。そうして、アスランの耳元に顔を寄せた。
「余り心配をかけない事ですね。ピオニーはもう気付いていますよ。」
 さっとアスランの顔が青ざめると、ジェイドは身体を離した。
どう言葉を繋いでいいのか、酸素を求める魚のように口だけをパクパクしていたが、ぐと唇を噛み締めた。ダンボールを掴んでいた指が、箱の側面に食い込む。
 俯き、声を潜めた
「…貴方のおっしゃるとおり、差し入れのケーキに仕掛けをしたのは私です。」


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