空気 大きなダンボール箱をふたつ重ねると、前が見えない。アスランは、身体を左右に揺らして前方を確認していたが、狭い廊下なので行き交うスタッフと衝突していた。 「すみません、す、すみません。」 謝罪の言葉を、録音されているように繰り返していると視界が広がる。 見ると、ジェイドがひとつ手に持っていた。目が合うと笑顔。 「今戻りました。彼のところへ向かうのでしょう?」 「ありがとうございます。あ、いえ、これはバレンタイン用なんで、私は楽屋の方へ向かいます。この時期は大変なんですよね。」 額に汗を滲ませるアスランにそうですか。とジェイドが応じた。 今のところ、特に変わった事は起きていない。 自宅が使用不可となり、安全面からもホテル暮らしを余儀なくされたピオニーの為に、ジェイド自らが指定したホテルへ自分と彼の荷物を移動させて来たところだ。 「彼は稽古場の方にいますので、お願いします。」 軽く会釈をして遠ざかるアスランを見送り、ジェイドは稽古場に足を向けた。建物の最下部にある防音設備の整った部屋へ向かう。角を曲がろうとしたジェイドは、こちらへ歩いてくる男を見て、眉を顰めた。身分証明のかわりになる、スタッフジャンバーを着て、何かを探すように視線を走らせている。 ジェイドは擦れ違いざま、男の手首をねじ上げた。盛大に上がるだろう悲鳴を、床に押さえ込む。 「上手く化けたつもりでしょうが、こんなところで何をしているんですか?」 「な、なにって…俺は…別に…。痛いじゃないですか。」 片腕を掴まれ背中を膝で押さえつけられた男が、訳がわからないというように懇願する。ジェイドは、笑みを含んだ声で返した。 「私はここで働く方全ての顔写真を見せていただきました。残念ながら貴方は、見たことがないですね。」 驚愕に目を見開いた男が、ちっ、と舌打ちをする音と同時に腕を振り解く。胸元に差し込まれた腕は、ナイフと共にジェイドの前に突き出される。 「どけっ!」 ドスの利いた低い声は、普通の人間ならば震え上がってしまうだろうが生憎と、対峙している相手が悪かった。 「おや。」と一言。ちらと見たのは、稽古場を望む窓だけだ。こちらの喧噪には気付いていない男の様子を確認して、ジェイドはふいに膝を曲げる。 「がはっ…!」 つられて下を向いた男は、ジェイドの頭突きを顔面で受けて混沌した。ナイフは、その手を離れ、廊下を滑っていく。 さて、と言葉を続けて、ジェイドは稽古場へと滑り込んだ。外の騒ぎに気付いた様子もなく、本番さながらの芝居が行われている。しんと静まりかえった室内で、ピオニーがゆっくりと顔を上げた。 歌うような言の葉。 手を伸ばす仕草、眼差し、立ち居振る舞い。どれをとっても、日常生活を営む彼からはかけ離れていた。 低く通る声は場を震わせる。たかだか、稽古場でこうだ。 舞台に立った彼は、もうピオニーという生き物ではないのだろう。それは、容易に想像出来る。 まるで、夢が覚める瞬間のようにピオニーは動きを止め、ジェイドを振り返る。そうして、驚いた顔で蒼穹の瞳を丸くする。 「……不思議な奴だな。気配が無かった。」 「それは、邪魔にならなくて、良かったですよ。一段落ついたのでしたら、こちらへ来て頂けませんか?」 ジェイドは、顎で廊下を示してみせた。 警察も呼ばれ、喧噪に包まれた廊下に女性スタッフが走り込んできた。 涙目の彼女の手には、布。数分前までは(衣裳だったもの)だろう。 ありゃあとピオニーが頭を掻くのが見えて、ジェイドはそれが彼のものなのだと気付いた。 「これじゃあ、修復のしようが…今からなんて、もう間に合いません。」 号泣する彼女に、狼狽える人々。駆けつけたアスランも、どうしていいのか判らないようで立ち竦んでいる。怒鳴り出すものや、叫ぶもの様々に反応を返している。 「予備とか、ないものなんですか?」 「一応主役が着る服だから一点ものだ。」 ピオニーはそうして、微苦笑を浮かべながら指示を出すと、素人であるジェイドの目にも明らかに見劣りのする服が、彼に手渡された。 「ま、これでいいじゃないか? 裸でする訳にもいかないし。」 肩に羽織り、鏡に向かってポーズをとる。 「やっぱり。中身が良いと、なんでも映えるな。」 そう告げて、ニカリと笑う。 ぬけぬけと言い放つあたりは自信過剰だと苦笑されても仕方ないが、場の雰囲気が一変したのをジェイドは感じた。 それでも、己を責めている女性は顔を上げる事すら出来ないようだった。 「あ〜でも、これに合う靴がないな。前のじゃあ、駄目だろ? 早く探して来てもらわないと時間がない。」 な。と片目を閉じた悪戯な表情で、座り込んでいた女性を見ると、はいと大きな声で頭を下げて、慌てて走り出す。周囲の人間も、慌ただしく仕事を再開した。 興味深く、意気消沈していた人々に活気が戻っていくのを見ていたジェイドは、隣でアスランが深い溜息をついたのに気付いた。 「こういう状況は、内部犯が一番多いんですよね。」 自分の言葉にアスランが微かに肩を揺らしたのを視線に納め、ジェイドはひとり微笑んだ。 「何アスランを虐めてんだよ?」 薄笑いを浮かべて聞いてくるピオニーの言葉を聞き流し、にこりと笑う。 「どうやら、私は貴方の芝居が気に入ったようです。」 そう告げたジェイドに、ピオニーは喉を震わせて笑った。 content/ next |