一番好きなこと 玄関の扉を開けたジェイドは、居間へと続く廊下を眺めてから後方のピオニーに確認をとった。 「…土足で上がってもよろしいでしょうか?」 下北沢の中古マンション。ワンルームに独り暮らし、女の影無し。家事能力極めて低し。渡された書類の内容を反覆し、納得した。フローリングの床は、足の踏み場もない程に物が溢れかえっている。 「まるで、空き巣に入られたみたいですねぇ。」 「空き巣に入られてんだよ、馬鹿!!!」 怒鳴り返されて、おやと目を見開く。 「それは失礼しました。汚いと伺っておりましたもので。」 「うっせぇ。確かに普段も汚ねぇが、置いて在る場所には法則があるんだ…ぞと!」 掛け声と共に、玄関からいっきに廊下へ飛び移ったピオニーが、勢いのまま奥の部屋へと向かう。ジェイドも後を追い、周囲を見回した。 部屋の前に置かれたダンボールが幾つもひっくり返され、中に入っていただろう手紙が散乱している。部屋へと到着していたピオニーがひょいと顔を覗かせた。 「ああ、それだけは踏むなよ。ファンから貰った手紙なんだ。」 「ことさらに大事にしてあったようにも思えませんがねぇ。」 軽い溜息と共に足元を見た。中には自分の写真を同封している者もいるようで、開封された部分から様々な顔が覗いていた。こういうファン心理は、ジェイドには理解不能だ。きっと、自分の事を彼に知って貰いたいという心理なのだろうけれど。 「特に盗られたもんはねぇなぁ。」 ごそごそと、あちこち掘り返していたピオニーが呟くのが聞こえた。 棚の上。目に付いた通帳には、少しばかり目を見開く金額が記載されていて、置いていくとは考えにくい。 「ピオニー。刑事ドラマを見たことはないですか? 現状維持ですよ?」 「何言ってる、盗られたものはありませんかって、お巡りさんが必ず聞くじゃないか。」 「そう言えば、変ですねぇ。」 顎に手をやりふむと首を捻ると、ピオニーが笑った。 「お前、綺麗なだけじゃなくて、面白いのな。」 「お褒め頂き光栄ですね。さて、これからどうしますか?」 ジェイドの問いに、時計に視線を向けたピオニーは、慌てた様子でごそごそと毛布をひっぱり出す。 「こんな時間じゃねぇか、公演開始まで寝る。時間になったら起こしてくれ。」 「警察は呼ばないんですか?」 「んな事したら、出らんなくなっちまうだろう。俺が出掛けたら、あんたが適当に手配してくれよな。有能なんだろ?」 部屋の角で頭から毛布を被って丸くなる。まるで、拾ってきた猫のようだとジェイドは思った。 本来ジェイドは、たかが俳優の脅迫程度で動く人間ではない。主に海外の要人をクライアントに持つ「最高級の腕を保持する」ボディガード。しかし、今回は、彼の上司にあたるゼーゼマンたっての願いで、この仕事を引き受けた。 目の前の男のファンだと、上司は告げたのだ。 「遠くない将来、彼は世界を拠点にする俳優に登りつめる。今、つまらないいざこざで潰れてしまうのは大変に惜しい。」 そんな物言いをする上司を見たのは初めてだったので、ジェイドは「ピオニーという男」に少しばかり興味を引かれたのだ。しかし、目の前の小汚い男の何処にそんな魅力があるというのだろうか。自分には理解しかねると結論を付けて、動き始める。 何処からか取り出した機械で部屋を調べ、隈無く探したのち隠しカメラを設置する。 「熱心なんだな。」 眠っているとばかり思っていた男から声がした。見ると、ひょこりと顔を半分覗かせてジェイドを見ている。 「仕事は仕事ですから。お時給分は働きますよ。」 毛布を口元に当てて、くくと笑う。そういう仕草は、なおさら猫を思わせた。 「貴方こそ、この状況で舞台は降りないというのはプロ意識という奴でしょう。 それにしては、主役に決まっていた舞台を降板したという経歴があるのは腑に落ちませんねぇ。」 物盗りではない。ならば舞台がらみの遺恨も充分に考えられる。ジェイドは、探りをいれるべくその台詞を口にする。あれは、そう呟くのが聞こえた。 「違法だったからだ。」 蒼穹の瞳が、ジェイドの瞳を真中に捕らえる。悪戯めいた表情でそれを細めた。 「オーディション会場で俺は主役が欲しいと言った。相手は身体をよこせと答えた。そういう事だ。」 「…恐らく、珍しい事ではないのでしょうね。」 「まあな。俺の身体なんか、くれてやっても良かったんだが、誰に嘘をつけても自分の気持ちには嘘をつけないからな。一番好きなことを胸を張って好きだと言えないのが嫌だったから降りた。」 つらつらと言葉を続けるピオニーをジェイドは不思議に思う。 「意外ですねぇ。こういう話はしたがらないと思いましたよ。」 「俺を守る最良の方法をとってくれるんだろ?」 そう告げると再び瞼を閉じた。直ぐに寝息が聞こえてくる。無防備に眠る姿は、幼い子供のようで、不思議とジェイドを穏やかな気分にした。 俳優としての才能の有無はわからない。しかし、興味を引く男なのは認めましょう。 ジェイドは微苦笑を浮かべ、足で座れるだけの場所を確保すると、ピオニーの隣に腰を降ろした。 content/ next |