私からすべてが始まった、私ですべてを終わらせよう 「お目覚めですか? 皇帝陛下」 淡々とした声が、背中から聞こえた。ピオニーは、瓦礫の上にペタンと座り込んだまま、おうと返事をする。 「つくづく貴方は変わった方のようですね。」 「そうだな。まぁ、よく言われるよ。」 事も無げに言ってのけてから、ゆっくりと振り返る。ピオニーだとて、少々肝が据わっているとはいえ普通の人間だ。 恐怖の感情がないわけではなく、自分をどうとでも扱える譜術師の顔正面から見るには、やはり少しばかりばかりの勇気が必要だった。 「あぁ、その。やっぱり綺麗だな、お前」 しかし、振り向いて、陽光の下で見た譜術師の顔は、やはり常軌を逸した整い方だった。透き通るような白い肌は、生きている人間とは思えない。 時代がかった衣裳を着ている事を考慮すれば、この廃墟に住み着いた幽霊の類だと考えるに違いない。 「お褒めいただき光栄ですが、貴方もなかなかに美人ですよ。」 眼鏡の奥に隠された赤い瞳が嗤う。 あの目を見てしまったからだろうか。自信に満ちあふれているような男が、悲しげな表情にピオニーの目には映る。 「…それは、初めて聞いた。」 美人。 生まれてこの方、自分をそう評した人間はいなかった。いや、いたか、たったひとり。陛下はとても綺麗ですと言った少将が居た。 「初めてとは思えぬ程に淫乱でした。腰を振り強請る仕草など、高貴な身分でいらしゃる方とは、とても、とても。」 譜術師の言葉に、目を細くして睨む表情をむけたピオニーは、その表情のまま口を緩く上げた。 「嘘つけ。そういうなら、もっと気持ちよくしてくれよ。俺は、痛いだけでちっとも楽しくは無かった。」 「…やはり、淫乱でいらっしゃる。」 「ああ、もっとサービスしてやるから、何か食うもんをよこせ。」 お腹の当たりを掌で撫でて、大きな溜息をついてやる。ちらりと、片目で様子を伺うと、眼鏡を指で押さえながら小さく首を振るのが見えた。 本気で呆れているようだとわかったのは、こう告げられたからだ。 「城に帰りますか?」 思わず、目をパチパチさせて男を見上げる。 「本気か?」 「嘘です。」 「酷い男だな、お前。期待させて於いて、それかよ。」 「期待など、欠片もしていらっしゃらないのに、そう仰いますか?」 胡座をかいた膝に腕を置き、ピオニーを頬杖をつく。 「城は、跡目争いの真っ最中で、俺の心配をしてくれている親族なんざ、ひとりたりともいない…違うか?」 肯定の意は沈黙だった。しかし、その妙な沈黙にピオニーははっと顔を強ばらせる。自分を放置してこの譜術師が城へ行っていた。それは理解出来る。皇帝を略奪された城内の混乱ぶりと眺めてほくそ笑む程度なら、ピオニーもやってみたいと思う。 けれど、果たしてそれだけでこの男が満足したのだろうか。憎悪の光を、その緋石に刻み込んだこの譜術師が。 小さくか細い国になってまで、過去の栄光が忘れられずに、己の益を優先する輩で溢れかえっているあの場所。自分を面白いと評した男にとって、“つまらない”者達がひしめき合っていると感じるのではないだろうか。 「…皇帝陛下。」 ぎくりと背が震えた。 「お前…城で何をした?」 声を発しようとした唇は強ばった。単語のひとつひとつを口にする度に、顎が痛い。言い終えた後は、ただ喉が乾いた。 クスリ。 綺麗な笑みが、綺麗な貌に浮かぶ。それが答えであることに気付かない程にピオニーは愚かではなかった。わなわな震える身体を押し留め、譜術師を見上げた。 「…っ。」 それでも、言いたい言葉が口から出てこない。 「不思議な方ですね。ご自身が嬲られた事には頓着ないご様子でしたのに、貴方にとっての政敵の安否に動揺なさるとは。」 クスクスと譜術師は笑い。眼鏡を指先で押し上げる。 「実に面白い。」 「おまっ…!?」 叫び声を上げる寸で、譜術師はピオニーの胸ぐらを掴み、力任せに持ち上げた。喉を圧迫される苦しさに顔を歪めていれば、男の顔が近付いてくる。 「私は、ジェイド…というんですよ。皇帝陛下。」 「ジ…ェイ…ド?」 ともすれば、息が止まるかと思える中、辛うじて相手の名前を復唱した。それに満足した様子でジェイドは、腕の力を緩める。 「はい。今後ともお見知り置きを。」 そう告げ、今度は完全にピオニーの胸元から手を放した。堰き止められていた空気が一気に入り込んできて、噎せぶピオニーを眺めてクスクスと笑う。 涙に霞む視界に映る彼の笑み。邪な笑みに違いないはずなのに、言葉にならない慟哭をその澄ました表情の中に押し込めているように見えて、ピオニーは己の感情の行き先を迷う。 止まった動きにあわせて、ジェイドの唇が重なった。深い接吻をされているのだと気付いたのは、二人の間に揺れる光がぶっつりと途切れた後。 それも、濡れて艶やかな赤い唇が、妖艶で綺麗だなどという感想なのだからいただけない。 「では。」 長い纏を翳して、跪く恭しい仕草が堂に入っていた。そうして、深く下げた頭が上がった時、ピオニーは再び置き去りにされた事に気付いた。 譜術師の姿は煙の如く消えている。 「…歩いて帰れってか、あの鬼畜…。」 口をへの字に曲げて、ボサボサの金髪を掻く。大きな溜息をひとつ太陽に向かって吐き出したところで、何の埒も開かない。仕方なく、痛む身体を叱咤激励しながら歩き始めた。ヒョコヒョコと歩く自分が、水から上がったアヒルか何かに似ているなぁと思えば、なんだか笑えた。 まるで悪夢のような一夜だったが、今後ともと言うからには当分続いていくものらしい。ジェイドと名乗ったあの男と身体の深淵まで交わったが、心の表面だけを撫でている感覚が、ピオニーの中に残っていた。 俺達は悪の譜術師殿について、何も知ってはいないって事か 無事に宮殿に戻れたら、暫くは資料漁りをしなければならないと思っていれば、 馬の爪が激しく地面を蹴る音がする。一頭ではなく、どうやら数頭分はいるらしい音に、追い剥ぎの類なら話にならなぁと苦笑する。 しかし、音は一足飛びに近付いて来てピオニーの眼前で停止した。 「陛下! ご無事ですか!?」 「気分的には、複雑だが生きてはいるぞ…良く此処がわかったな。」 皇帝に向かい礼を尽くさなければと思ってはいるのだろうが、動揺の余り兵士達は皆吾先にピオニーの回りに押し寄せた。それを制したのは、将軍の補佐に付いていた男だった。 「陛下を連れ去り、宮殿を襲撃した後をつけました。途中で巻かれたかとも思ったのですが、譜術師が音素の気配を捕らえてくれていたので…。」 その説明に、ピオニーは高笑いをしたくなる。ジェイドは、兵士達が付いてきているのを知っていてあそこに置き去りにしたに違いない。そうでなければ、音素の気配を悟られるような真似をする男には見えなかった。全ては計算づく、つくづく敵には回したくない男だ。 労いの言葉を口にしてから、ピオニーは宮殿の様子を尋ねる。ざわついていた兵士は一斉に静まり、答えはない。兵士から渡された纏で身体を覆うと、ピオニーは手短な馬の兵士に降りるようにつげ、自らが手綱を握った。 切り刻まれた肉片は周囲にばらまかれ、吐き気を催すほどの生臭さが漂う。床といい、壁といい全ては赤く染まっていた。驚愕に眼を見開いて人形の如く止まった動きは、やがて大きな呼吸音と共に崩れ、吸い込んでしまった臭いの分だけ、嘔吐として戻される。 「戦場ですら、こんな惨たらしい遺体は見たこともありません。」 ピオニーの背中をさすっていた兵士は、そう告げた。荒い呼吸と、ピリピリした喉の痛さに眉をきつく寄せたピオニーは、柱に縋るようにして立ち上がる。 目の前の光景は、何度見ても馴れるようなものではなかった。思わず目を背け、部屋を後にする。 紅い瞳も紅い部屋も、ジェイドの紅蓮に彩られている事は理解出来た。 帝国が、つまりはその支配者であった皇帝が、遥か遠い昔に与えたジェイドへの仕打ち。それが、今この国を脅かす厄災となって戻ってきている。 今後ともとあの男が告げた以上、終止符が打たれるまでこの関係は続くに違いなかった。最後の時が与えられるのは、国か怨念か、それとも自分か。 何にしたところで、ピオニーには決意をすることしか出来はしない。 私からすべてが始まった、私ですべてを終わらせよう。 〜fin
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