aftershock …と、聞き慣れた足音が近付いてくる。 その人物の特定は間違えようもなく、ここから退散しなければならない事に気が付いた。なにしろ、目の前の逸品は『マルクト皇帝』。値踏みをしていたなどと、うっかり知れたら、それが原因で機嫌を悪くするに違いない。 男はその体には不似合いなほどに素早く、そこを立ち去った。 教団本部。アニスが、二人の男を連れて、最上階に位置する客室に向かっていた。すれ違う教団員に問われると、新人研修で掃除をさせるのだと答える。成程と思って見てみると、その男達は片方は大きなバケツをもう一人の男はブラシを手にしていた。 部屋へはいるとすぐに、纏を深く被った銀髪の男がそのバケツをあちこちに翳して、部屋の様子をうかがう。そして、アニスともう一人の男に頷いて、纏を外した。 バケツ男はディスト。そして、手にしていたブラシを消して、辺りを見回した男はジェイドだった。 「盗聴器の類は一切ありません。声を出しても大丈夫ですよ。」 それを聞いて、アニスは胸に手を当てて大きく息を吐く。あ〜緊張したと小さく一人語ちる。 「アニス、ここが、陛下が行方不明になった部屋ですか?」 アニスはコクリと頷くと、その中央にある豪華なべっドへと二人を誘う。 「朝、ここに入った侍従長が、陛下の姿が無い事と、これに気が付いたの。」 大きくめくれ上がった、それでも柔らそうな掛け布団に赤い印が散っていた。そして、その下にはもう乾いた血糊がべったりと貼り付いている。 ジェイドは、シーツについたそれをめくり上げ、下の部分の浸透を観察する。 致死量では無い。しかし、放っておいて無事であると言える量でもない。これが、彼のものだとすると、なるべく早く止血をして適切な処置を施さないと、出血そのものと、そこから併発する合併症に犯される危険があった。 そして、もうひとつ。 「前にこちらで、会議をした際は、部屋の中にも兵士を配置していたはずです。何故今回は…。」 この建物の性質上、いかなる隠し扉が配置されているかわからない。前回はその辺りに注意をしていたはずだったのだが。 「はう…。」 俯いた少女は、酷く幼く年相応に見えた。 「預言派の動きが激しくてそちらに兵を割いていたのと…それに応じてなんだと思うけど盗賊が出るようになってて…。この間、近くの村が焼き討ちにあって…。それで…。」 アニスの言葉にジェイドは、眼鏡を押し上げながら溜息を付いた。そこまで聞けば、あの皇帝が何を言い出したかなど、手にとるようにわかる。 「…陛下が、そちらへ兵を回せとおっしゃったんですね。」 再びアニスは無言で頷く。 「詳細は、わかりました。後は、我々にまかせて通常に戻ってください。預言派の方から何の声明は出ていないようですし、いつまでも業務を外れていては返って不自然です。何かあれば、こちらから連絡を入れますから。」 穏やかだが、意見を聞き入れるような隙はない。アニスは黙って指示に従った。 「これから、どうするんですか?」 腕を組み不遜な態度のディストなど相手にする様子もなく、床に膝を付きベッドの周辺に目をやった。そして、ベッドと床の間に手を差し込んだジェイドは、そこにある固いものを探り当てる。掴んで、取り出すと蒼い髪飾り。 ピオニーのものに間違いなかった。 しかし、ジェイドは、眉を潜めた。 奇妙だ。揉み合って落としたのなら、こんな奥に入り込んでいるはずもなく、拉致した賊の仕業なら堂々と置いてあってしかるべき。手に入れた人物は、それだけの価値を持っている。 「なんですか!?あ!それピオニーがしてる髪飾りじゃないですか!」 手の内を覗き込み騒ぎ出したディストに、一瞥をくれてから再びベッドに目を移したジェイドは、この頃頻繁に起きる目眩に襲われる。 赤黒い血糊など、既に見慣れている。死体ですらもそうなのに。そんなもので、目眩など起こるはずがないのにも係わらず。意識は暗転した。 扉を開くと、銀髪の男が纏りついてくる。 『外で何をしてるんですか?』 うきうきと楽しそうに聞いてくる、鬱陶しいディストの顔に、笑みを浮かべてみせる。 『貴方にだけは、そのうち話をしてあげますよ。』 そう言うと、歓喜の声を上げて私が頼んでいた薬品を差し出した。 馬鹿な男だ。私がしていることも知らないで。喜んで私を匿い、実験の手助けをする。 『あそこの村も全滅したそうですよ。』 今頃か…。 まだ、感染力が弱い。たったあれだけの人数に感染するのにこんなに係ってしまっては意味がない。もっと早く、もっと強力なものでなければ…私から、彼を奪った者達に届かないではありませんか…。 脳裏を掠める、金色の髪。笑顔。 くくくっと笑うと、ディストが反応した。 『随分、楽しそうですね。ジェイド。』 喜び…?これが? ああ、そうですね。ディスト。 何もかも、貴方もいなくなったら、やっと私も楽しくなるかもしれませんね。 流石に、こう立て続けだとうんざりしますね。 ジェイドは、キーキー耳元で叫ぶ下僕の声で現実へ返った。やかましいと一撃喰らわせると、部屋の角で大人しくなる。 蔓延する疫病が世界の破滅を示唆していたあの預言。それは、今見ていた情景そのものだ。 これは空想なのだろうか。もしそうだとしたら、自分はなんと想像力豊かな人間だったのだと感心してみる。世界の変革のきかっけがフォミクリーを生み出した自分なのだとしたら、破滅もまた、自分が引き金になるという筋書き。 物語とすれば、面白いストーリーだ。 『ただ、これでは自己讃歌が激しすぎます。ディストを笑えないですね』 そう思って下僕に眼をやると、しゃがみ込んだまま、上目使いに自分を見ていた。 「…昔の貴方みたいです。」 ポツリとディストが言う。 「あの男に出会う前の貴方みたいです。完璧で冷徹で、合理的で悪魔みたいに魅力的ですよ。」 「…虫酸が走りますね。」 「でも、あの馬鹿陛下は、そんな貴方を決して望んでいないでしょうね。」 夢の中では、自分の言いなりだった男の言葉にジェイドは微かに表情を変えた。 そのジェイドに反応し、両手で頭を抱えて殴られる事を想定しながらも言葉を続けるディストは、ある意味新鮮ですらあった。 「先生が蘇ったら、前の様になれると思っていた私も相当に馬鹿ですが、あの男を失ってなお、平気でいられると思っている貴方も充分に馬鹿です。現に、今貴方はおかしいじゃないですか!」 僅かに動いたジェイドの手に、ひいっと身体を竦めながら、しかしディストは言葉を止めはしなかった。 「先生が蘇っていなくたって、あの男がいたから、私達はこうやって行動を共にしているのですよ。それを…。」 ジロリと睨むと、流石に言葉を途切れさせる。ジェイドは溜息を付いた。 「貴方の苦言を聞き入れる日が来ようとは、世界の破滅が訪れてもあり得ないと思っていましたよ。…しかし、世界の破滅は回避されました。なるほど、色々と考えてもしかるべきですね。」 ジェイドは、手にした髪飾りをディストに見せる。 「やっぱり、ピオニーのですね。」 「このベッドの周辺に隠し扉か、なんらかの仕掛けがあるはずです。後から来る人間の為に置いていったに違いありません。そういう機転は利く男です。」 「では、それを探せという事ですね。」 幼い頃からの下僕扱いで、ディストのジェイドに対する要求の受取は早い。懐から小さな音機関を取り出してごそごそしていたが、ふいにジェイドの方を向いた。 「ああ、ジェイド。折角なので、貴方の為にピオニー人形を作ってみました。」 頬を赤らめながら差し出されたそれは、トクナガ並みの素晴らしい出来映えの皇帝を象った人形だった。 勿論、ジェイドの眉間に皺をを入れるのに充分な代物だ。ヒクリと口元が歪む。 「…少しでも貴方の言葉を聞く気になった私が馬鹿でした。」 その言葉と共に、盛大なディストの悲鳴が貴賓室に響いた。 content/ next |